なかでも親しかったのは、細川忠興(ただおき)とガラシャの子で、のちに初代本藩主となった細川忠利(ただとし)でした。延俊の奥さんは、細川忠興の妹でしたから、叔父と甥(おい)でもあります。年もわりと近いですし、気が合ったのでしょう。

 帰国の許しを得て、延俊が江戸を出発したのは2月4日。馬に乗り、お供も少人数でした。京都までは、仲良しの忠利とほとんど同行したと言ってもいい。秀忠から拝領した馬を見せ、宿を訪ね合い、一緒にお寺参りもしています。「浜名湖の渡しで美少女がいた」と忠利が話したりもしている。殿様が駕籠(かご)に乗り、ものものしい行列をつくる参勤交代の制度ができる20年くらい前ですから、なんとものんびりとしています。

 駿府(すんぷ)では、家康にあいさつしようとしたら、鷹(たか)狩り中だと待たされて3日足止めとなりました。でも、その間にしっかり本多-正純や藤堂高虎と交流しています。

 江戸をたって17日後に着いた京都では、叔母のねね(北政所)を何度も訪ねています。ねねは、延俊が体調をくずせば見舞いの手紙や薬をおくるなど、かわいがっていたようです。京都の後は、淀川を下って大坂城の秀頼にあいさつをし、ようやく7月初めに船で日出(ひじ)へ帰国します。

 慶長18年を西暦にすると1613年、徳川方と豊臣方が戦う大坂の陣が始まる1年前です。日記から戦の前といった雰囲気は読み取れませんが、この時期に家康、秀忠、ねね、秀頼と立て続けに会っているのも延俊ならではでしょう。

 日記はこの1年しかありませんが、豊臣家が滅亡へと向かった翌年以降、豊臣の一族としては日記を書く気にならなかったとしても不思議ではありません。

(構成 横山 健)

週刊朝日 2016年1月29日号

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