「自由社会の個人は他人の言説を恐れる必要はない。自分が不正だと信ずるものを他から強制されるものではないことを知り、自由に不正な法律を批判し、その廃止を要求しうる。また国民の利益に反すると考える公の行為に対し、すべて公然と活発に反対することも自由である」「日本の官吏に、国民の希望を無視して政策をたてるという伝統的な制度に逆もどりする傾向、すなわち統治でなく支配する傾向があれば、すべてこれに活発に反対せねばならぬ」(朝日新聞、1947年5月1日付より抜粋)

 ある意味で、このコメントは大きな矛盾と偽善も含む。占領政策に批判的な言論を検閲しマスコミを統制したのは当のGHQだったからだ。だが、それは今だから言えて当時の世情では仕方なかったかもしれない。深刻なインフレと食糧不足で人々は毎日を生きるのに必死で、民主主義を深く考える余裕はなかった。そして太宰やエマーソンが描く悲喜劇が生まれていった。

 それを冷ややかに見たのが英国である。権力者を縛り各国の立憲主義の礎となったマグナ・カルタ(大憲章)は800年前、英国で生まれた。彼らはGHQの試みをこう評していた。

「連合国はかつてない壮大で野心的な実験を行おうとしている。支配と教化で国民の政治的習慣を変え、これまでの知的伝統を破壊または大きく修正できるとしている。可能かもしれないが、歴史上、そのような前例は聞いた事がない」

「(アングロ・サクソン型民主主義は)キリスト教の教義に由来する個人の自由の伝統から長い時間をかけて発展してきた。(略)。同じ条件が整わなければ日本で同じ発展が起きるとは思えない」(1946年3月26日、英外務省文書)

 だが、本当にそうだろうか。戦後70年の今年、安倍政権の安保法案をきっかけに全国で反対デモが相次いでいる。これまで政治に関心などなかった学生や主婦も駆けつけ、「立憲主義を守れ」「民主主義って何だ」と声を上げる。国家と個人の関係とは、憲法の役割とは何か、ようやく皆が真剣に考え始めたようだ。

 もしそうだとすれば、安倍首相はGHQが目指した日本民主化を完成させた人物として歴史に名を残すかもしれない。

(ジャーナリスト・徳本栄一郎)

週刊朝日 2015年9月11日号より抜粋