昭和天皇の「防空壕」東側の入口(写真:宮内庁提供) @@写禁
昭和天皇の「防空壕」東側の入口(写真:宮内庁提供) @@写禁

 皇居・吹上御苑に眠るのは、昭和史の舞台となった建物群。昭和天皇が終戦の聖断を下し、終戦の日に自らの玉音放送を聴いた御文庫附属室が戦後70年の節目に、公開された。

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 終戦から70年の歳月を経て昭和天皇の防空壕、「御文庫(おぶんこ)附属室」が公開された。631.5平方メートルの広さの鉄筋コンクリート製の建物内部は、雨や泥が流れ込み、床や壁の木板が朽ち果てている。1941年、陸軍は近衛第一師団を動員し、昼夜兼行工事で造った。昭和天皇と香淳皇后は、空襲時には、住まいの「御文庫」から約135メートルの地下通路を通り避難。44年11月には神嘉殿(しんかでん)代を設け新嘗祭を執り行っている。一方で陸軍は、昭和天皇が指揮する最高司令部としての機能も想定し、一角を大本営付属会議室とも呼んだ。

 8月10日午前。この場所でポツダム宣言受諾の御聖断が下され、14日には最後の御前会議。翌15日、天皇は録音された玉音放送を御休所(ごきゅうしょ)で聴いた。10トン爆弾にも耐える構造と、発電機などが備えられた「日本で最も頑丈な防空壕」も、いまは吹上御苑にすむタヌキやハクビシンのねぐらになっている。

週刊朝日 2015年8月14日号