開業医だった父の影響で、大学は医学部に進むことも考えました。「医者は個人を治す。文系は社会を直す」。そんな父の言葉で、弁護士を志しましたが、日本の復興に貢献したい、公の仕事がしたいと思い、最終的には大蔵省に入りました。

 初めに関わった大きな仕事は災害対策基本法を作ることでした。首相は岸信介さんで私は内閣事務官。33年に狩野川台風、翌年に伊勢湾台風で、計6千人以上が犠牲に。国民の生命・財産を災害から守るための原案を作りました。

 思い出深いのは45年の大阪万博です。当時は主計局主査で、520億円の予算を振り分けていました。「太陽の塔を造りたい。夢のあるものだ。もっと予算をつけてくれ」という岡本太郎さんとも、丁々発止やり合いました。

 来場者は当時の万博で最高となる6421万人。東京五輪とならぶ大イベントが成功に終わり、「これで俺たちの国も完全に復興した」と感無量でした。

 当時の残業時間は月200~300時間。もらえる残業代は10時間分。同僚と文句も言いましたが、頑張れたのは欧州に勝ちたかったから。41年にGNP(国民総生産)で英国を、43年には西独も抜きました。官僚に限らず、勤め人、自営業者も、戦後の日本人はよく働きました。

 いまの安倍政権で、集団的自衛権行使に向けた憲法解釈の変更が進んでいます。ときの権力者が国民の声も聞かず、勝手に解釈を変えていいはずがありません。歴代の自民党政権は平和を大切にしてきました。首相の祖父の岸さんもそう。「日本国憲法のもとでは行使できない。個別的自衛権で対処する」と国会答弁で明確におっしゃっています。

 かつて田中角栄首相がこう言いました。

「戦争を知っている人間が社会の中核である限り、日本は安全だ。しかし、戦争を知らない人間が中核になったときが問題だ」

 今まさに田中さんが危惧した時代に突入している。自分も戦争体験者として、声を上げていきたいです。

週刊朝日 2015年7月10日号