自民党 総務会長二階俊博(にかい・としひろ)1939年、和歌山県生まれ。2000年5月、森喜朗内閣の時代、運輸相だった二階氏が「日中文化観光交流使節団」を引き連れて訪中。最大1万3千人規模の使節団を率い、計5回の訪中を果たしている。現在、自民党総務会長(撮影/写真部・堀内慶太郎)
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自民党 総務会長
二階俊博(にかい・としひろ)
1939年、和歌山県生まれ。2000年5月、森喜朗内閣の時代、運輸相だった二階氏が「日中文化観光交流使節団」を引き連れて訪中。最大1万3千人規模の使節団を率い、計5回の訪中を果たしている。現在、自民党総務会長(撮影/写真部・堀内慶太郎)
作家大下英治(おおした・えいじ)1944年、広島県生まれ。「週刊文春」のトップ屋として活躍し、執筆活動に入る。政治、経済、芸能、闇社会まで幅広い著述活動を展開し、著作は400冊以上に及ぶ。今回の二階氏の訪中団に参加(撮影/写真部・堀内慶太郎)
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作家
大下英治(おおした・えいじ)
1944年、広島県生まれ。「週刊文春」のトップ屋として活躍し、執筆活動に入る。政治、経済、芸能、闇社会まで幅広い著述活動を展開し、著作は400冊以上に及ぶ。今回の二階氏の訪中団に参加(撮影/写真部・堀内慶太郎)

 5月23日に訪中し習近平国家主席と会談した、自民党総務会長の二階俊博氏(76)。中国訪問後、安倍晋三首相とどんな話をしたのか気になるところだ。今回の二階氏の訪中団に参加した作家・大下英治氏が聞いた。

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大下:2月には1400人を引き連れ、訪韓し、朴槿恵大統領と面会しました。5月23日も約3千人の訪中団と一緒に習主席と北京の人民大会堂で面会しましたが、昨年5月に自民党の高村正彦副総裁、今年3月に谷垣禎一幹事長が訪中した際、2人とも習主席とは会えなかった。不安はなかったのですか。

二階:ありませんでした。3月にボアオ・アジアフォーラムがあり、そこで習主席にお会いし、約3千人の一般市民のみなさんと北京を訪れるから、全員が人民大会堂に入れるように便宜を図ってもらいたいと伝えました。習主席から直接、「皆さんを歓迎する」という言葉をいただいてました。しかし、外交というのは何が起こるかわかりませんから、「習主席が来られる」とは誰にも一言も言わなかったんです。

大下:二階さんは北京で習主席に11月5日を世界の「津波の日」にしたいと、直接、伝えられましたね。

二階:3千人もの人が聴いている前で、習主席にダイレクトに申し上げるのが一番手っとり早いでしょ。

大下:二階さんは自民党が野党だった時代、津波法案を議員立法で通すために動きました。これが早く通っていたら、3・11はもっと被害が少なくて済んだかもしれません。3・11が起こり、11月5日が津波防災の日と決まった。私は2013年に『津波救国<稲むらの火>浜口梧陵伝』という本を書きましたが、浜口は安政南海地震(1854年)の時、和歌山県広川町で津波が差し迫っていることを稲に火をつけて知らせ、住民を避難させた人物です。その日が11月5日でした。

二階:今度はその防災の日を世界規模でやっていこうと。今の時代、国は随分離れていても、災害は地球規模で広がるでしょう。10万人単位で人が被害にあっているというのに、何も対応しなかったら、科学も文化もないと思うんです。

大下:5月27日、首相官邸で安倍首相に中国訪問を報告されましたが、どんな会話をしたんですか。

二階:難しい局面にあった日中関係が「ひと山越え、一歩前進したことは間違いない」と言うと、首相も同じ認識を示されました。そして中国の500人の子供たちを日本に招待することを、習主席に提案したことを報告したんです。訪中団には北海道、福井、奈良、埼玉県の4人の知事が参加されてましたから、500人が来日したら、各道県で100人ずつ責任を持つ約束をしてくれました。残り100人は私どもの責任で受け持ちたいという計画を相談したら、安倍首相は顔をほころばせて「それはいいことです。官邸も案内しますし、私も時間が合えば必ず、挨拶に出る」と言われました。首相の反応がいいから、みんなが寄ってくるわけですよ。多忙なスケジュールなのに、40分もお時間を割いていただいた。私たちが退席しなければ、エンドレスな雰囲気でした。今回の訪中は公明党、民主党にも報告したが、大変良い雰囲気でした。

(構成 本誌・上田耕司)

週刊朝日 2015年6月12日号より抜粋