※イメージ写真
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 10万人を死に追いやった東京大空襲からちょうど70年。体験者への取材をもとに、3月10日の惨劇を振り返る。

 当時14歳で深川高等女学校2年生だった赤澤寿美子さん(84)も、深川区(江東区)に住んでいた。10日未明は、父母と2人の弟と5人でひと晩中、火の海を逃げ回った。

「朝になって友だちを捜そうと学校に行くと、全焼していて不気味なほど静かでした」

 道いっぱいに転がる黒い丸太や瓦礫(がれき)を、棒でよけながら必死に友人らを捜すうちに、「明治座のほうに助かった人がいるぞ」と叫ぶ声がした。日本橋区浜町にあった明治座は歌舞伎や芝居の殿堂だった。警防団の人たちが明治座の隣に立っていた倉庫の扉を開けようとしているところだった。寿美子さんが近づくと、扉の中は、木製の茶色いマネキンが裸でぎっしりと詰まっていた。

「なんだ、マネキンか」

 戻ろうとした瞬間、警防団が一体引き出すと、「マネキン」は口から血を吐いて寿美子さんの前にどさっと倒れた。熱風で蒸し焼きになった人間だった。

「髪の毛も服もすべてなくなっていた。それからは家族の元に戻るのが精いっぱい。明治座の様子は確認できませんでした」

 あとで知ったが、明治座は焼け崩れ、内外に避難していた350人余りの人が亡くなった。寿美子さんは帰り道になって、丸太や瓦礫と思っていたものが、すべて遺体であることに気づいた。

 この悪夢の夜、家族6人を失った亀谷敏子さん(83)の自宅も深川区白河町3丁目にあった。空襲警報を聞いたものの、敏子さんは身体が重く、おっくうで布団に潜ったまま。母は「しょうのない子だね」と言いながら、1歳半の弟を背負い、敏子さんの姉と3人の妹を連れて、避難所になっていた近所の末広味噌屋ビルの地下室に逃げた。

「馬鹿、起きろ。火が回っているぞ」。敏子さんは、町内の見回りに来た父親にたたき起こされ、一緒に味噌屋ビルに向かった。

 飛び込んだ味噌屋ビルの1階は、避難者で満員電車のように混み合い、母らのいる地下室にはたどり着けない。そのうち、ビルは炎に包まれ窓ガラスが飴のように溶け始めた。敏子さんと父は、熱風と火の粉が舞う外に飛び出し、体中にやけどを負いながらも一命を取りとめた。

 味噌屋ビルに逃げた家族と再会したのは4日後のこと。憲兵隊の遺体処理班がシャベルを使って作業していた。避難した人たちは熱さから逃れるために、地下室にあった水道を放出し続けたのだろう。地下室は水浸しになっていた。遺体は、原形をとどめていなかった。沸騰した水で体がとけていたという。

 憲兵の「許す」という号令で、人びとは10分だけ身元確認が許された。

「母がいました。丸坊主でしたが、割烹着(かっぽうぎ)を身に着けていました。歩き始めたばかりの弟は、頭と足首から先がありません。5歳の妹は胴体だけ、10歳の妹は下半身だけが残っていました。姉と12歳の妹は見つからなかった」

 敏子さんの父は、憲兵の目を盗み、金具がついた鳶口(とびぐち)で、母や妹の骨のかけらをそっと削って、持ち帰った。

週刊朝日 2015年3月20日号より抜粋