1998年9月。宮尾さんは、「二度と行きたくない」と長年拒絶していた旧満州を52年ぶりに再訪し、涙を流した(撮影/写真部・小林修)
1998年9月。宮尾さんは、「二度と行きたくない」と長年拒絶していた旧満州を52年ぶりに再訪し、涙を流した(撮影/写真部・小林修)

 直木賞作家の宮尾登美子さんが老衰で亡くなった。享年88。

 宮尾さんは、1926年に高知市に生まれ、芸妓(げいぎ)紹介業の家に育った。家業に対する嫌悪感は、のちに太宰治賞を受賞する自伝的小説、『櫂』を生み出した。

 17歳で結婚し、教員の夫、長女と旧満州へ渡る。敗戦後1年あまり、難民収容所で過ごした。この壮絶な体験をもとに、極限状態に置かれた人間のエゴイズムをのちに描いた小説が『朱夏』だ。宮尾さんは、

「饅頭一つ欲しさに、赤ん坊の娘を市場で売ろうかとさえ思った」(週刊朝日98年11月27日号)

 と、当時を回想している。

 62年、高知県にいた宮尾さんは文筆活動を始め、短編「連」で女流新人賞を受賞。翌年に離婚し、高知新聞の記者、宮尾雅夫さんと再婚して66年に上京する。

「私は好きなことをどうしてもあきらめられない」

 仕事への情熱を編集者にこう語っていた宮尾さん。79年に直木賞を受賞。その後、多くの作品が舞台や映画、ドラマの原作に採用された。『鬼龍院花子の生涯』は夏目雅子主演の映画に、『天璋院篤姫』『宮尾本 平家物語』などがNHK大河ドラマになった。2008年に菊池寛賞、09年には文化功労者に選ばれるなど、華々しい活躍が続いた。

 だが、宮尾さんの執筆活動を支え続けた夫の雅夫さんが07年に亡くなったあと、08年の『錦』を最後に、小説の執筆から急激に遠ざかった。

 86歳になった12年春には、故郷の高知市で一人暮らしを始める。同じ高知市出身で親しくしていた作家の山本一力さんには、

「この年になると、いてもたってもいられない。高知が見たい」

 と話していたという。

「この時期から、母は人生の整理整頓を始めたのでしょう。人付き合いを絶っていきました」(次女・環[たまき]さん)

――これから高知市に住みますが住所は未定です。申し訳ございませんが、手紙も電話も遠慮いたします。宮尾さんは、こうした文面のはがきを、仕事の関係者や知人、友人に送った。

 宮尾さんの小説の挿絵を担当し、友人として付き合いの深かった日本画家の野田弘志さん(78)も、このはがきを受け取った。

「宮尾さんが平家物語の執筆のために北海道の伊達市に建てた山荘は、私の家から50メートルほどのご近所です。長年の飲み食い友達でしたが、はがきを境に宮尾さんの消息は、ぷつりと途絶えました。宮尾さんと40年来の付き合いがある作家の加賀乙彦さんも心配して、一緒にずいぶん宮尾さんの行方を捜しました」

週刊朝日  2015年1月23日号より抜粋