映画館に催涙弾 実録スター 菅原文太の人気ぶり 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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映画館に催涙弾 実録スター 菅原文太の人気ぶり

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週刊朝日#お悔やみ
「仁義なき戦い 頂上作戦」の撮影時に深作欣二監督と(1973年) (c)朝日新聞社 

「仁義なき戦い 頂上作戦」の撮影時に深作欣二監督と(1973年) (c)朝日新聞社 

 昭和の映画の巨星が、また一人、逝った。70年代、「仁義なき戦い」や「トラック野郎」で日本映画界を支え、ドラマなどでも活躍した俳優・菅原文太さん(享年81)。

 1958年に映画界へと転じたが、鳴かず飛ばずだった。新東宝のアクションものや松竹のメロドラマなどに出演するものの、ぱっとしない。67年、新天地を求て東映に移ったが、クールな二枚目スターは任侠(にんきょう)映画の花形・高倉健の独壇場だった。

「東映に来たとき文ちゃんは30歳を超えていた。その年で芽が出なかったら、わかるだろう? そのころはだいぶ鬱屈していたね」

 そう話すのは、文太さん浮上の契機となる「懲役太郎 まむしの兄弟」(71年)を手がけた中島貞夫監督(80)だ。後に大きなヒット作となる「トラック野郎」シリーズの鈴木則文監督らも交え、当時は3人でよく酒を酌み交わしながら映画論を戦わせたり、ままならない仕事への不満をぶつけあったりしたという。

 だが、転機は訪れる。

 ホームドラマの松竹、サラリーマンものの東宝とともに、東映の屋台骨だった任侠(にんきょう)ものに、マンネリの風が吹き始めた。義侠心と自制心を持ち、様式美をまとった任侠路線から、観客はよりどぎつくハードな表現を求めていく。

 そのなかで、深作欣二監督とのコンビで73年、「仁義なき戦い」シリーズ(73~74年)が登場した。原作の飯干晃一や脚本の笠原和夫が広島に実在したやくざに徹底取材した、生き残りのためには平気で仲間を裏切るやくざの群像劇。この東映の「実録路線」で、「スター菅原文太」が誕生した。

 文太さん演じる主人公・広能昌三は、仁義を重んじながらもいや応なく抗争に巻き込まれていく中堅幹部だ。ギラギラした男の殺気をみなぎらせる文太さんの演技は、任侠もので高倉健が演じた「静」と対照的な「動」の魅力となり、観客の心を揺さぶった。

 闘うシーンは手持ちカメラがやたらに揺れ、拳銃の音は降り注ぐ雨あられのように映画館に響いた。映画評論家の白井佳夫さん(82)は「菅原文太の映画は祭りのようだった」と評する。

 白井さんがキネマ旬報の編集長時代に「仁義なき戦い 代理戦争」のプロモーションの司会のために新宿の映画館を訪れると、ガラスが割られ、男たちが殺気立っている。聞けば予想外の人の入りで、中に入れない客らが暴れ、警察が催涙弾を撃つ騒ぎにまでなったのだという。

「それぐらい菅原文太には勢いがあった」(白井さん)

 松竹が「男はつらいよ」シリーズを当て、やくざ映画人気が終わるころ、“文太兄い”はもう一つの代表作「トラック野郎」シリーズ(75~79年)を得る。主人公の星桃次郎として、助手席に愛川欽也さん扮する「やもめのジョナサン」を乗せ、アドリブが飛び交う俗で軽妙な喜劇で新境地を開いた。

「桃次郎はトラックの世界の永遠のヒーローだよ」

 そう話すのは、映画を機に発足したトラッカーたちの親睦団体「全国哥麿(うたまろ)会」の会長、田島順市さん(66)だ。ほかのどんなスター俳優より、文太さんがハマり役だと感じたという。

 当時のトラッカーは荷物を全部手作業で積み下ろし、ろくに寝ないで走る重労働。景気のいい仲間ほど、筋肉質で痩せていた。

「だから丸々とした俳優然としたやつに演じられたってねえ。その点、菅原文太さんは背が高くてガリガリ。ねじり鉢巻きがよく似合って、肉体労働の真実味があったよね」

 映画で使われたきらびやかな極彩の電飾満載の桃次郎のデコトラ「一番星号」は田島さんが譲り受けた。修理しながら大切に乗り、震災被災地のボランティアに向かうこともある。

 後年、農業や脱原発活動に邁進していく文太さんの姿に、田島さんは言う。

「やっぱり、桃次郎と同じでさ、弱い者のためにひと肌脱ぐって気持ちが、あったんだろうね」

週刊朝日 2014年12月19日号より抜粋


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