ノーベル賞の中村修二さん 取材のたびにカメラマンが“困っていた”こととは? 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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ノーベル賞の中村修二さん 取材のたびにカメラマンが“困っていた”こととは?

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中村修二さん。高校生の時、生徒会誌に残した言葉は「何年生きるかよりも、いかに生きるかが大切である」 (c)朝日新聞社 

中村修二さん。高校生の時、生徒会誌に残した言葉は「何年生きるかよりも、いかに生きるかが大切である」 (c)朝日新聞社 

「アンビリーバブル(信じられない)!」

 受賞を告げられた10月7日未明(現地時間)。発表会場から電話で感想を尋ねられた中村修二さん(60)は、興奮した様子だった。

 だが、中村さんを何度も取材した経験があるジャーナリスト・編集者の石田雅彦さんによれば、このように語ったこともあるという。

「もしノーベル賞をとったら、大学の講義が免除されるし、駐車スペースももらえるのがうれしい。それくらいのものですよ」

 世界最多、300人以上のノーベル賞受賞者を出した米国で活動する中村さんから見ると、熱狂的に受賞を騒ぎ立てる日本人に違和感があるのかもしれない。

 2000年に渡米して以降、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授として研究にいそしむ。前出の石田さんが語る。

「世間では激しい性格というイメージもあるでしょうが、実際に接すると穏やかです。服装には無頓着で、取材で会うたび同じポロシャツなのでカメラマンが困っていた。『何時間でも考えごとができる』と言い、集中力がすごい。思考に集中しすぎて、タクシーに乗った後で行き先を忘れてしまうこともあるそうです」

 愛媛県の西端・佐田岬半島にある瀬戸町(現・伊方町)に生まれた中村さんは、4人きょうだいの3番目。兄の康則さん(62)がこう振り返る。

「私も修二もガンコで、1台しかない三輪車を取り合って兄弟げんかばかりしていた。父は四国電力の技術者。白熱電灯が壊れると、修二は父にくっついて『どうして壊れたの?』と聞いていました」

 バレーに明け暮れた高校時代を経て徳島大学工学部に進学した直後から、個性的な行動が目立ち始める。味気ない教養科目に疑問を感じ、友人たちと“絶交”して下宿に閉じこもったのだ。

「中村君の母親に頼まれて下宿に行ったら、6畳ひと間の薄暗い部屋で物理や数学の本を読んでいた。大学に来るよう説得しても『意味のないことはしない』という。結局、前期試験が始まるころから復帰して、しっかり進級していた」(高校・大学時代の同級生)

 大学の同級生だった妻との出会いは、学園祭のダンスパーティーで目にとめたことがきっかけ。

<その女性に思わず「踊ってくれませんか」と声をかけてしまいました。もちろん魅力がなければ声などかけませんが、今でもあのときのことを思い返すと、自分の意外な積極性に驚きます>(自著『怒りのブレイクスルー』<集英社>から)

 大学院生のときに学生結婚。康則さんによると、お金がないので親きょうだいや友人でカンパを出し合って結婚式を挙げたという。

週刊朝日 2014年10月24日号より抜粋


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