宮内庁が24年余りかけて編纂した『昭和天皇実録』。歴史学者の加藤陽子東京大学大学院教授(53)は、戦前の軍部との関係に注目した。戦争回避や和平を気にかける姿がさまざまな場面で記述されていた。沖縄戦が終了したとの報告を受けたその夜、昭和天皇が1時間にわたって蛍を眺めたことの意味を考えたいという。

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 昭和天皇実録では、昭和天皇が戦争回避や和平を気にかけていることが繰り返し出てきます。

 1940(昭和15)年8月5日、葉山で静養中の昭和天皇は、蓮沼蕃(しげる)侍従武官長を葉山から東京へ向かわせる。重慶国民政府を率いていた蒋介石との和平工作「桐工作」の最新情報を求めるためです。

 国民政府は当時、欧米各国から物資の援助を受ける「援蒋ルート」が断たれつつあり、財政的に苦しんでいた。米国で公開されている蒋介石日記によれば、蒋介石はこの時期、最も講和に前向きになっていました。

 8月22日には、土橋勇逸・参謀本部第二部長や鈴木卓爾台湾・香港駐在武官から桐工作の進捗(しんちょく)状況を聞いた蓮沼に報告させている。9月に日独伊三国軍事同盟が結ばれる直前、日本が国民政府との和平を試み、そこに昭和天皇も強い関心を寄せていたことがわかります。

 これに先立つ同年5月28日に天皇は、揚子江開放問題について百武三郎侍従長と談じ、海軍と大蔵省の態度に注目しています。37(昭和12)年に日本軍が揚子江を封鎖したことに対し、米国などが開放を要求していた問題です。陸軍や興亜院は、対米関係改善に役立つので開放を是認していたのに、穏健に見える海軍や大蔵省が実のところ反対だったために実現されなかったことが、現在ではわかっています。天皇がこの点を理解して動いているのが、興味深いと思いました。

 開放問題は、翌年の日米交渉のときにも懸案となり、米国側は日米交渉に対する日本の本気度を測るため、まずは開放して日本の誠意を見せろと要求します。桐工作も開放問題も、中国と米国に対する勘所となる問題で、そこに天皇が働きかけている。

 41(昭和16)年の太平洋戦争開戦前には、弟の高松宮の扱いについて気になる記述がありました。実録では8月5日、高松宮が昭和天皇に対し「ジリ貧になるため、速やかに断乎たる処置を取るべき」と発言したと記され、高松宮が対米開戦積極派だったかのように映ります。しかし高松宮本人は、第1次大戦当時のドイツ艦隊の意味を論じたつもりだった。「高松宮日記」の8月24日の項を読むと「お上(天皇)がスゴク御心配」していると伝えられ「どうも全然思ひ当る節もない」と戸惑っていることがわかります。

 当時、兄弟の言葉に行き違いや齟齬があったことが、高松宮日記によって推測されます。しかし、実録はその齟齬に立ち入らないまま、昭和天皇の視点から書いているのではないか。

 実録によると昭和天皇は幼少期、いつも弟の秩父宮、高松宮とともに学び、ともに遊んでいたことがわかる。後に長じてからは兄弟間に確執があったとも言われ、最後の元老の西園寺公望などは、兄弟間の争いを実際に警戒していました。しかし、幼少期の密接な生活ぶりを考慮すれば、この3人の間の信頼関係は揺るがなかったのではないかと感じました。だからこそ実録は、高松宮日記をもうちょっと正確に使ってほしかったと思います。

 これまでに出た本の内容の補正をめざしたと思われる記述もありました。

 
 宮内省御用掛を務めた外交官の寺崎英成が、昭和天皇が戦後に語った言葉をまとめた「昭和天皇独白録」では、鈴木貫太郎首相が45(昭和20)年6月に「詔書を出して国民を激励して頂きたいと云って来たが」、和平に動き出したのだから断ったと昭和天皇が述べたことになっています。しかし実録によれば、6月22日に鈴木が求めたのは「沖縄の将兵及び官民への詔勅」だった。独白録には記憶違いがある可能性があり、実録で補正しようとしたのではないかと感じました。

 昭和天皇は6月20日夜、「皇后と共に観瀑亭・丸池付近にお出ましになり、一時間にわたり蛍を御覧になる」と実録に書かれています。参謀総長から沖縄の組織的戦闘が終了した旨を聞かされた夜のことです。実録の描写はあくまで「叙事」に徹しており、「叙情」的ではないのですが、それだけにこの日についての叙述は印象に残りました。この年の5月に明治天皇ゆかりの宮殿が空襲の影響で炎上するのですが、その後の5月28日夕刻、天皇は塩原産の野草を御文庫(天皇の防空壕)前の庭に植えています。野草を植え、蛍を見るというしぐさの意味を考えたいですね。

 皇太子時代の21(大正10)年の欧州訪問の途上、天皇は沖縄、台湾、香港、シンガポールに寄港しつつ、世界に向かいました。沖縄から南北2千キロの円を描けば、北はウラジオストク、南はフィリピン・ルソンまで入ってしまう。沖縄の地政学的重要性が肌身でわかっていた天皇ならではの沖縄観があったのではないでしょうか。

 降伏直前の45年7月、ソ連を仲介とした終戦工作の動きがありました。長谷川毅さんの『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』などにも書かれていますが、実録を読むと昭和天皇の終戦の意図が連合国に伝えられていたことの意味について再度考えさせられます。

 7月7日、天皇は鈴木貫太郎首相に「ソ聯邦(れんぽう)に対して率直に和平の仲介を依頼し、特使に親書を携帯させて派遣しては如何」と伝え、さらに天皇は18日、スターリン・ソ連共産党書記長が米英首脳と独ポツダムで会談する前に自身の親書が届いたかどうかを東郷茂徳外相に確認。「ポツダム会談前に我が方の申し出を先方に間に合うよう伝え得たことは誠に結構である」と述べています。

 もちろんよく知られたように、ソ連は親書に述べられた天皇の意思「速カニ平和ノ克服セラレムコトヲ希望セラル」を知りつつ、特使派遣の意図を再度尋ねるという形で時間をかせぎつつ、ポツダム宣言を発表しました。

 ポツダム宣言前後の歴史については、国体護持をめぐる政府の意思決定が遅れた結果、広島への原爆、ソ連参戦、長崎への原爆を招来した、といった過誤と惨禍の過程から説明されます。その説明自体は歴史の説明としてまったく正しいのですが、「天皇陛下ニ於カセラレテハ今次戦争カ(略)速カニ終結セラレムコトヲ念願セラレ居ル次第」という親書の文句が、日本側の国家意思としてポツダム会談前に連合国側に伝えられていたことの意味を考えたいのです。

週刊朝日  2014年10月10日号より