日米の交流に大きく貢献したジョン(中濱)万次郎。その5代目・中濱京(50)さんは、今でも続くアメリカとの交流関係を明かした。

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 万次郎は通訳として、勝海舟らと咸臨丸でアメリカに渡りました。このとき福澤諭吉と一緒に買ったといわれているウェブスターの辞書が、わが家に残っています。

 幕末から明治維新にかけて日米の交流に大きく貢献した万次郎にとって、この渡米は2回目でした。

 最初は14歳のとき。漁で難破して太平洋の無人島に漂着した万次郎は、アメリカの捕鯨船に救助されたのです。日本は鎖国していましたから入港できません。万次郎を乗せた捕鯨船はアメリカへ戻りました。

 船長のホイットフィールドは、マサチューセッツ州のフェアヘーブンという町にある自宅に万次郎を迎え入れ、学校にも行かせてくれました。

 フェアヘーブンには、F・ルーズベルト大統領の祖父が住んでいました。彼は万次郎を救った捕鯨船の所有者の一人でした。

 そんなご縁から、万次郎の長男・東一郎のもとへ、ルーズベルト大統領から手紙が届いたことがありました。「祖父の家は、万次郎が住んでいた家のすぐ近くにあった」「子どものころに祖父から万次郎のことを聞いていた」という内容でした。この手紙もわが家の宝物。

 万次郎がお世話になったホイットフィールド家とは、今でも親戚のようなおつき合いです。東日本大震災のときには、5代目のロバートが心配して、すぐ電話をかけてくれましたし、毎年のように会っています。

 万次郎は、“日本人初”のことを多くしてきました。初のアメリカ留学生、蒸気機関車に乗った初めての日本人。ネクタイと「ABCの歌」を初めて日本に持ち込んでもいます。

 ゴールドラッシュに参加した唯一の日本人でもあるんですよ。日本へ帰る費用を稼ぐために、カリフォルニアの金山へ行って、70日間で600ドル稼いでいます。当時の水夫の月給が17ドルですから、上手に金を見つけたと思います。

 万次郎の好物はうなぎ。いきつけは、東京・浅草の「やっこ」というお店でした。万次郎は、必ず残りものを持ち帰っていました。店では万次郎はケチだと思われていましたが、実は、両国橋の下にいる乞食に渡していた。だから、盆暮れには彼らの親分が中濱家にあいさつに来たんですって。これはホイットフィールド船長から学んだ「隣人愛」だと思います。

 フェアヘーブンにあるホイットフィールド船長の家は、一時、ボロボロになって取り壊そうという話がありました。そのとき、聖路加国際病院の日野原重明先生が「歴史的な家をなくしてはいけない」と、プロジェクトを立ち上げて、全国からの寄付金で修復され、「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」としてよみがえりました。日米関係の原点のような場所なので、日野原先生は、「記念館で日米首脳会談をぜひ行ってほしい」とオバマ大統領に手紙を書かれたそうです。

 4年前、マーギー・プロイスというアメリカ人作家が万次郎の物語『HEART of a SAMURAI』を出版しました。昨年末に、オバマ大統領もこの本を買ったそうです。万次郎のことを知ったオバマ大統領が、記念館で日米首脳会談をする日も近いかもしれませんね(笑)。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年9月5日号