佐倉藩藩主として栄えた堀田家。その13代当主堀田正典(まさのり)氏が先祖の秘話を明かした。

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 5代・正亮(まさすけ)のときに山形藩から佐倉藩に移りますが、山形には4万石ほどの領地が幕末まで残りました。堀田家が治めていたからでしょう、山形市の蔵王地区は、もとは堀田村といったらしい。今でも蔵王堀田という地名がありますし、陣屋があったところには堀田永久稲荷という神社が残っています。

 幕末にハリスと交渉した正睦(まさよし)は、「西洋堀田」と言われるくらい洋学にのめり込んでいた。長崎でオランダ医学を学んだ佐藤泰然(たいぜん)を佐倉に招き、私立病院「順天堂」を開かせます。医学塾でもあった順天堂には全国から医学生が集まってきて、「西の長崎、東の佐倉」と言われるほどだったそうです。

 泰然の養子・尚中(しょうちゅう)は、東京に順天堂を開き、現在の順天堂大の前身となりました。東京のほうが大きくなりましたけど、おおもとになる佐倉の順天堂も、佐倉順天堂医院としてちゃんと残っています。

 最後の藩主だった正倫(まさとも)は維新のあと佐倉に住みましたが、祖父・正恒の代では東京住まいでした。久しく誰も住んでいなかった佐倉の屋敷は、厚生園という結核療養所に貸していました。ところが戦時中、佐倉に疎開することになり、父は厚生園の患者の方たちと屋敷に住むことになったとか。戦後、結婚して私が生まれたときも、座敷は結核の病人でいっぱいだったと聞いてます。

 私が生まれてすぐに、祖父が亡くなりました。財産税やら相続税で大変だったのでしょう。屋敷は厚生園に売却して甚大寺というお寺に引っ越しました。

 
 甚大寺は堀田家の菩提寺です。正亮のときに、堀田家とともに山形から佐倉に移ってきました。そこの離れの客殿に一家で住んだのです。

 ほぼ正方形の15畳の部屋が二つ。奥の客間で両親が寝起きしていました。手前は私と弟が机を並べていた子ども部屋です。お客さまが来れば、子ども部屋を通り抜けて客間へ入っていく。出入りはけっこう激しくて、常に誰かしら来ていました。

 お客さまが多かったのは、父・正久が佐倉市長をしてたからでしょう。彦根市長だった井伊直愛さんとともに、「殿様市長」なんて騒がれたこともあったようです。

 余談ですが、叔母が“政商”小佐野賢治さんと結婚したときも騒がれたらしい。古い写真を見ればわかりますが、叔母はたいへんな美人だったそうです。お公家さまと結婚が決まっていたのを、小佐野さんが熱心にアプローチして奪い取ったというふうに聞いています。
 私自身は堀田家ということで騒がれたことはないです。中学まで地元の学校でしたが、まわりは特別扱いしてくれませんでしたよ。でも、領地だった山形の旧堀田村に行くとちがいます。

 あちらはとにかく情があつい。父の葬儀のときには、山形から多くの方が来て参列してくださいました。翌年にお礼をかねて佐倉の「藩友会」という旧家臣の面々と山形へ行ったら、「お殿様ご一行」という横断幕で出迎えてくださいました。そういえば父も、「佐倉では一般の市民だけど、山形に行くとお殿様だ」って笑ってましたっけ。山形に引っ越そうかな(笑)。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年8月22日号