強敵ソ連を撃破し、日本女子バレーの実力を知らしめた「東洋の魔女」 (c)朝日新聞社 @@写禁
強敵ソ連を撃破し、日本女子バレーの実力を知らしめた「東洋の魔女」 (c)朝日新聞社 @@写禁

 1964年の東京五輪。世界中から集まったアスリートの活躍に酔いしれた。バレーボール女子日本代表も多くの人に感動を与えた。その裏には、選手たちのある決意があったという。

 東京五輪といえば、必ず語られるのは「東洋の魔女」の金メダル。専らレシーブで活躍した松村(現姓神田)が、こう明かす。「五輪に出場していたのは、あのメンバーじゃなかったかもしれないんです」。

 東京五輪当時、松村は22歳と若かったが、チーム最年長で31歳の河西(現姓中村)昌枝主将を始め、当時としては「高齢化」が進んだチームだった。「20代前半までには結婚して、家に入るのが当たり前の時代でしたから」(松村)。

 東京五輪の2年前に世界選手権優勝の快挙を果たすと、大松博文監督はメンバーたちを実家に帰らせた。「五輪までやれるのか、親と相談してこいって。でもみんな、日本の『金』のために戻ってきたんです」。

 覚悟を決めた後の練習は過酷だった。松村は当時、午後4時まで社業に従事した後、午前2時まで「鬼の大松」にしごかれた。

「でも、つらいとは思わなかったんです。『こうする』と腹をくくったら、あとはやるだけ。潔いでしょ?」

 かくして金メダルは、鬼に導かれた魔女たちの胸に輝いた。決勝の相手はソ連だった。回転レシーブや無回転サーブなど「魔女オリジナル」の技術も繰り出し、体格差の不利も跳ね返した。

 コートで見せた潔さは、のちの人生でも貫かれた。松村は五輪翌年に引退、退社。その4年後に結婚し、競技から身を引いた。「選手として、やるべきことはやりましたから。中途半端にプレーするのは、本気でやっている人に失礼だと思ってました」。

 40歳までは3人の息子の育児に専念し、子育てが一段落すると、化粧品などの販売代理店を起業した。「代理店を起こすにも試験があって、大変でしたよ。でもバレーと一緒で、やると決めたらあとは努力するだけですから」。現在も8人の孫を持つ一方で、経営者として、その手腕を振るい続けている。

「7年後の東京五輪では、レシーブからつなぐバレーが見たい。レシーブさえ上がれば、必ず勝てます」。「拾い上手」の魔女らしい言葉だ。

週刊朝日  2013年9月27日号