世界的デザイナーとして活躍する山本寛斎氏。幼い頃、両親が離婚し、テーラーを営む父親に引き取られた。高校で土木科に進学。他校の女子と出会うためにわざわざやっていたことなど、自身の高校時代を振り返った。

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 あの当時の青春のバイブルは「月刊明星」「月刊平凡」で、その中の読み物でいつも若き建築家がえらくモテるんですよ。たまたま入った工業高校は建築科がなくて土木科があった。土木も建築とまあ同じようなもんだろうと思って、土木科に入ったんです。

 高校ぐらいから、もう目立ってましたね。血気盛んで、他校との決闘なんかあると私も参加しました。応援団を指揮する団長もやりまして、団員の衣装や振り付けとか全部自分で考えるんです。

 もちろんおしゃれもしていました。石原裕次郎さんが人気者のときには、彼をまねてズボンを細く縫ったりした。家業ですから、父の手伝いで背広の襟の端を縫ったりしていたので、できたんです。友達にも縫ってくれと頼まれました。ほかにも、制服の下に強烈にきれいなシャツを着るとか、襟を高くするとかいろいろしました。

 男女共学だったんですが、女子は全校でたった1人。自転車通学だと女の子と出会うチャンスがないからと、わざわざ私鉄で通学して他校の子と出会いの場を作ろうとしたりしてね。でも当時の女の子は堅かったから、おいそれと楽しいことはできませんでしたね。

※週刊朝日 2012年6月29日号