かつて、大きな被害をもたらした台風には、「おくり名」が付けられるのが慣例だった。1961年、室戸岬西方に上陸した台風は、死者・行方不明者合わせて202人、全半壊6万戸、床上・床下浸水38万戸という大惨害をもたらした。第二室戸台風である。この時代の記憶のある皆さんなら、「第二室戸台風」と聞いただけで、その被害の規模を思い出せるだろう。洞爺丸台風、伊勢湾台風などの名前を聞くだけで、被害の大きさとともに、その時代の情景、自らの人生など鮮やかに蘇る人は多いはずだ。

 個人の思い出作りのために、台風に名前が必要だ、と言っているのではない。名前を付けて後世に伝えることで、記憶の風化を防ぎ、子孫に警告を残すことができると思うのだ。しかし、台風に「おくり名」を付けるのは77年の沖永良部台風が最後になっている。理由は定かではない。この台風の被害は死者1人であり、災害の大きさが命名の理由という訳でもないようだ。

 ところで名前といえば、先日、最高裁で死刑が確定した山口県光市の母子殺害事件で、犯行当時少年だった被告を実名報道するかどうかでメディア各社の判断が分かれた。多くは「死刑判決によって社会復帰の可能性がなくなり、少年法が要請する匿名の意味がなくなった」として実名報道に踏み切った。

 私は、全く別の理由で実名報道を支持する。13年前に「弥生」と「夕夏」という2人の人間を殺した人物が単なる「少年A」という存在でなく、「孝行」という名前を得てこの世に生を受けた一つの命で、その命が、自らの犯した罪の償いのために国家権力によって絶たれることになったのだ。国民はそれを知る権利があるし、メディアはそれを伝える義務があると思う。名なしの「A」が名なしの存在のまま、この世から抹殺されるなどということは、決して許されることではない。

 名前は重要だ。記憶するにも、反省するにも名前が必要なのだ。

※週刊朝日 2012年3月16日号