諏訪の森と湖にひしめくのは古代の精霊?それとも?「謎」多き諏訪明神に迫る

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諏訪大社 上社本宮 勅願殿 (20:30)tenki.jp

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長野県の諏訪湖に面した北と南に向かい合うように座す諏訪上社と諏訪下社。もともとは別の二つの神社が統合されて明治以降に「諏訪大社」と呼ばれるようになりました。信濃国の一之宮で、全国にちらばる諏訪神社の総本社です。上社が本宮と前宮、下社が春宮と秋宮という二宮からなり、二社四宮という特殊な形態をもちます。謎めいた特異な祭祀をいくつも抱え、現代人のロマンチックな空想をかきたててきました。いわく「縄文以来の史前の古代神」「自然崇拝の森の精霊」…でも、その「正体」は意外なものなのです。 天下無双の竜神?究極のアンダードッグ?由緒不明の神、諏訪入りす 諏訪大社の祭神は、上社本宮が建御名方神(タケミナカタノカミ)、前宮がその妻とされる八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)、下社は共通して建御名方神、八坂刀売神 、八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ) とされます。タケミナカタは、母は高志(越)の国の地神・沼河比売(ヌナカワヒメ)、父は大国主神(オオクニヌシノカミ)の別神名・八千矛神(ヤチホコノカミ)の間に生まれたとされ、大国主神は奈良三輪山の神・大己貴神(オオナムチ)でもあり、正体は大蛇とされ、母・沼河比売も、その名から容易に水神であることが推察できます。 ですから建御名方神も、水神・竜神であるといわれます。が、この建御名方神、神話・伝説では唐突に登場する由緒が不明の神なのです。 タケミナカタが文献に登場するのは、古事記の国譲り神話。大国主神の長男の事代主神が、天つ神から遣わされた建御雷神(タケミカヅチノカミ)に国譲りを迫られて承諾したのに対し、承服できないと千引の岩(ちびきのいわ)を引きずり現れたのがはじまり。それまでオオクニヌシの神統譜には一切出てきていないのに、なぜか次男として紹介されます。そしてタケミカヅチと一騎打ちの戦いをし、腕を引き抜かれて出雲から諏訪まで逃亡し、追いつかれると「もうここから出ないから殺さないでくれ」と懇願した、という何とももう、漫画のやられ役のような情けない姿で描かれます。 この逸話は、正史である日本書紀には一切記載されていないこと、先行する関連伝承もないことから、古事記作者の完全な創作・作り話である、とするのが今では一般的な解釈なようです。なぜそのような話が作られたのかについては諸説ありますが、古事記編纂当時の最高権力者である藤原氏の氏神であるタケミカヅチを最強の武神として描くため、という説が有力です。本来、天つ神の武神の筆頭は剣の神であり物部(=もののふ)氏の氏神である経津主神(フツヌシノカミ)なのですが、フツヌシを押しのけ、その座に強引に古事記の中のみで居座ってしまったのが藤原氏の神・タケミカヅチ。名に見える雷や甕、槌などからは、戦ではなく農耕と関わりの深い素朴な常陸地方の土着神だったことをうかがわせます。が、権力の中枢にある藤原氏の威光にふさわしい見せ場を演出するために、タケミナカタはタケミカヅチにコテンパンにされる役割として引きずり出されたのでした。 大和岩雄氏はその著書「神社と古代王権祭祀」で、この古事記の神話には、信濃国造で諏訪下社の神官でもあった金刺氏が古事記の編纂者・太安万侶(藤原不比等自身であるともされる稗田阿礼の口述を筆記した人物)と同族であることから、諏訪の神を中央政権の神統に関連付けるために、あえて負け役でも登場させ、権威付けを計ったのだ、とされます。 また、諏訪には古墳時代、物部氏の領地がありました。丁未の乱(ていびのらん/587年)で、厩戸皇子・蘇我馬子が物部守屋と覇権を賭けて戦います。この戦いに敗れ、物部守屋は殺されます。息子の武麿はこの後領地のあった諏訪の守屋山に赴き、当地の神社の神長(かんのおさ)または神長官(じんちょうかん)となった、とされます。諏訪にはタケミナカタがやってきて、もともとの諏訪の神を打ち負かし、服従させた、という言い伝えがあります。先住のもともとの神。その名は洩矢(もれや)神、または守矢(もりや)神といいます。 御寺の柱の下には…善光寺と諏訪大社をつなぐワード「守屋」 守屋と守矢(洩矢)。守矢氏には、物部氏の血統であるという家伝も存在します。守矢神は、「守屋大臣」という、神の名としては奇異な別名すらあるのです。諏訪大社上社の「諏訪信重解状」には、諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)を追討した、という記述があります。神の名に「大臣」とつくのも異様です。 物部守屋と信濃・諏訪との関係を示すものはまだあります。諏訪大社と並び立つ、信濃の信仰の聖地と言えば長野善光寺。諏訪大社と善光寺は切っても切れない関係にあります。物部守屋が災厄の原因であるとして難波の堀江に投げ捨てたとされる百済仏。日本最古の仏像と呼ばれる阿弥陀如来像は本田善光によって引き上げられ、難波から諏訪へと運ばれ、善光寺の本尊の秘仏となった、と伝わります。 そして、善光寺の本堂の、内々陣と呼ばれる最奥の場所に立つ柱は、本堂を支える108本の柱のうちたった一本のみ角柱(他の柱は円柱)で、守屋柱という名がついています。大阪の四天王寺からわざわざ移設したともされるこの柱の台座の下には、伝説では物部守屋の首が埋められているといわれているのです。守屋の首が本当に埋まっているとしたら実に呪術的であり、善光寺自体が、守屋の怨念を鎮めるための寺だとも考えられます。ですから、守矢神と物部守屋は強く関わりがあるのはこれで間違いがないでしょう。 ただし、この守矢神とは、「神官の守矢氏が奉る神」という意味で、守屋自身が神ということではありません。モリヤ神の本来の名前は「ミシャグチ」という名だとされます。 このミシャグチ神を押しのけて諏訪の神に収まったのがタケミナカタなのですが、ミシャグチもタケミナカタも、その本体は、何と生きた人間なのでした。 中世に名を轟かせた諏訪神党。それは強力な武装集団だった タケミナカタの子孫とされる神氏(じんし・みわし)は、明治以前までは諏訪上社の大祝(おおほうり)、つまり現人神(あらひとがみ)として君臨していました。一年神主といわれる諏訪明神の依り代が毎年選ばれ、そして毎年刷新(前年の依り代は殺される)された、という言い伝えもあります。それらの祭祀を担っていたのが神長官・守矢氏だったのです。 そして、下社の神官・金刺氏、上社の大祝諏訪氏(神氏)とも、1051年の陸奥地方の動乱・前九年の役ごろには武装化し、強力な武士団を形成していきます。源頼朝の崇敬を受け、鎌倉時代の元寇の際には「神風」を起こしたと噂され、更には室町末期には武田信玄の甲斐に吸収される形で戦国最強と謳われた武士団の守護神となり、諏訪明神の武神としての栄誉は知れ渡ることとなります。そう、諏訪の神とは、今の日本人が思い込んでいるような森の精霊を祀る静謐な神社とは真逆の、まさに戦神であり、諏訪上社・下社は武闘派神社だったのです。諏訪とは、大和政権の権力抗争と一体化してきた地だったのです。 「でもそれはタケミナカタがそうなんでしょ?本来の諏訪の神様・ミシャグチ様は縄文以来の自然と一体化した神様なんじゃないの?」と言う方もいるかもしれません。 では、本当にミシャグチこそは縄文の古い神、森と湖の精霊なのか。後編ではその正体に迫っていきましょう。 古事記研究 西郷信綱 未来社

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