台風15号の影響により沖縄や九州離着陸の運航便の欠航が相次ぎましたが、折しも今日8月25日は東京国際空港開港記念日です。
通称・羽田空港は1931年の開港以来、第2次世界大戦、東京五輪、高度経済成長など、時代の流れに大きく左右された空港でもあり、羽田空港の歴史をひもとくことで日本の当時の時代背景や国際情勢も垣間見ることができます。
目まぐるしい進化を遂げ、開港から84年を迎える羽田空港。
どの時代においても機能の発展が求められてきた、日本で最も忙しい空港の歴史に迫ります。

整備・拡張を重ねてきた羽田空港。富士山を望める絶景スポットも……
整備・拡張を重ねてきた羽田空港。富士山を望める絶景スポットも……

羽田空港乗客第1号は鈴虫!?

1917年、飛行訓練場「日本飛行大学校」という名で現在の羽田に飛行場ができました。
その14年後の1931年8月25日、羽田飛行場が開港。日本初の国営民間専用空港として開港しました。
記念すべき第1号のフライトは日本航空の中国・大連行定期便。6人乗りのプロペラ機で雨の中のフライトとなりましたが、当時、中国・大連までに要した時間は何と約12時間!
今では3時間ほどのフライトですが、この頃は今でも想像できないロングフライトだったのです。もちろん航空運賃も非常に高いものでした。
そのため、記念すべき初フライトに乗っていた“人”はパイロットのみ。乗客は、なんと松虫&鈴虫6000匹だったというから驚きです。何でも、大連でカフェを経営している日本人が異国の地に住む日本人にも秋の風情を感じてもらいたいからと取り寄せたというのです。まさに驚きづくしの初フライトでした。

穴守稲荷神社、赤鳥居の伝説

順調に国際飛行場として活発になっていった羽田空港でしたが、戦争によって、その役割は大きく変わることとなります。
1941年、太平洋戦争が勃発。軍用飛行場としての使用となり、民間の飛行は停止。
さらに1945年8月、終戦後はアメリカの軍事下におかれました。「ハネダ・アーミー・エアベース」として米軍は敷地の拡張を計画しました。
近隣住民が強制退去させられる中、ただ一つだけ撤去することができないものがありました。
それが穴守稲荷神社の赤鳥居です。あまりにも頑丈でどうしても動かすことができなかったというのです。さらに撤去を試みた作業員はケガをするという伝説も……。その真相は定かではありません。

現在は弁天橋近くに移転した穴守稲荷神社の赤鳥居
現在は弁天橋近くに移転した穴守稲荷神社の赤鳥居

巨大な埋め立て地、沖合展開事業

国際線が成田空港に移転後も、羽田空港の国内線の混雑は解消されませんでした。
1984年、空港施設の整備・拡張を行うため、沖合展開事業をスタート。
しかし、このあたりの地盤はかなり軟弱で埋め立て工事にはかなりの苦労があったとか。それでも何とか埋め立て工事は進められ、羽田空港を含む大田区の面積は世田谷区を抜き、東京23区最大の区となったのです。
1993年には第1旅客ターミナルビル(主にJALグループが使用)、2004年には第2旅客ターミナルビル(主にANAグループが使用)が完成。2013年沖合展開事業は完成となりました。
日本一の旅客数、離発着数を誇る羽田空港。2020年には東京オリンピックを控え、日本の航空事情をめぐる議論はさらに活発になるでしょう。80年以上にわたり、日本の空の便を支えてきた羽田。今後も新たな歴史が刻まれることでしょう。

埋め立てによって拡張された滑走路
埋め立てによって拡張された滑走路