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1969年1月19日、安田講堂を占拠した学生は、排除行動に出てきた機動隊に投石と火炎ビン攻撃で応酬した
写真=朝日新聞社
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大学改革の要求を掲げて立ち上がった日大生
20億円の使途不明金問題を機に、日本大学の学生たちは学園の改革を要求して立ち上がった。「要求貫徹までバリケードを死守する」と全学共闘会議(全共闘)は気を吐く
写真=多木浩二/アサヒグラフ(1968年7月26日号)から
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日大全共闘ヘルメット
ヘルメットに手ぬぐい、マスクのスタイルは、体育会系などのスト破壊行為に備えるためとして自然発生的に広まった。ブルーは経済学部、赤のラインは理工学部のものである
国立歴史民俗博物館蔵
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日大最大のデモ
「学生運動とは無縁」だった日本大学で「はじめての集会、はじめてのビラ、はじめてのデモ」が行われた。学内で最初に200メートルデモが行われたのは経済学部だった
写真=多木浩二/アサヒグラフ(1968年7月26日号)から
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一月九日告示
東京大学は1968年6月17日、安田講堂を占拠した学生を排除するために機動隊を導入。翌年1月9日、2度目の機動隊導入を決めた際、総長代行が学生の一部との討議を呼びかけた告示。以降、機動隊が頻繁に入る
1969.1.9 個人蔵
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安田講堂を占木処(ママ)せよ!!
登録医制度に反対した、東大医学部学生や研修医が処分。これを機に、学生と大学が対立した。「要求を貫徹するまで、我々自身の時計台で何日間でも集会を行おうではないか」とある
東大ベトナム反戦会議 1968.6.27 国立歴史民俗博物館蔵
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墜落事件現場を前にした1968年8月2日九州大学の状況 米軍機・大学紛争関係スクラップ
1968年6月2日、米軍板付基地を発進した米軍機が九州大学構内に墜落。事件後、米軍が無断侵入し、学内世論が硬化した。反戦運動、大学紛争に揺れる九大の記録である
二宮孝富氏・九州大学大学文書館提供
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封鎖解除直前の広大正門前
タテ看板の向こうは机と椅子を連結したバリケードで、この11日後、機動隊が封鎖を解除した。大学側は「君たちの勇気はたたえる。胸を張って出てきなさい」と呼びかけた
1969.8.6 広島大学文書館蔵(総務課金庫旧蔵写真)
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ベトナムに平和を!福岡市民連合の旗
1965年2月にアメリカが北ベトナムを爆撃、世界中に衝撃を与えた。その行動に反対を唱える運動の一つが「ベトナムに平和を!市民連合」だ。この旗は現在も使用されている
個人蔵
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ベ平連こうべの女性が使用したヘルメット
神戸のベ平連こうべで活動していた女性たちが使用していたヘルメット。女性たちは、「月曜のおんな」の会をつくり、ウーマンリブを超えた、差別のない社会づくりを目指していた
1972 個人蔵
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週刊アンポ 第0号
ベ平連の運動が、日米安保条約改定問題へと関心を拡大していくなか「週刊アンポ」が創刊。この表紙は粟津潔氏によるもので、赤瀬川原平氏、佐々木マキ氏らもデザインした
(有)アンポ社 1969.11.17 国立歴史民俗博物館蔵
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ベ平連ニュース No.101(終刊号)
「ベトナムに平和を」と呼びかけ1965年10月に創刊した「ベ平連ニュース」は毎月発行された。全国各地の運動の報告や通信文などが掲載され、74年3月の101号まで続いた
ベトナムに平和を!市民連合 1974.3.1 立教大学共生社会研究センター蔵
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三里塚・駒井野団結小屋
1971年9月16日、空港反対派が所有する土地に対し、千葉県による第2次強制代執行が行われた。写真は空港反対同盟最大のトリデ・駒井野団結小屋
写真=朝日新聞社
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東京大学は1968年6月17日、安田講堂を占拠した学生を排除するために機動隊を導入。翌年1月9日、2度目の機動隊導入を決めた際、総長代行が学生の一部との討議を呼びかけた告示。以降、機動隊が頻繁に入る
1969.1.9 個人蔵
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芝山町で使用されたドラム缶
1966年に新空港建設が決まった成田市と芝山町で地域ぐるみの反対運動が起きた。反対同盟が結成された集落では、同盟員を呼び集める際、ドラム缶が打ち鳴らされた
成田空港 空と大地の歴史館蔵
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1968年を中心とした社会運動の歴史
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