-
ヴィリニュス 中央駅に新設中の免税店。構内には出入国審査窓口もあった。リトアニアはEU加盟国なので、リトアニア国民は、以前は一つの連邦であった近隣のロシアやベラルーシと行き来するのにビザが必要だ
-
ヴィリニュス 旧市街のすぐ外に中央市場があり、その周りの路上では、自分の庭や畑で取れた花や野菜を売る人々がいて、場内同様に活気があった。首都とはいえ人口55万人ほどなので、おっとりしている
-
ヴィリニュス 中央市場内の肉屋で売られていた豚脂。アペタイザーとしてこのままパンに塗って食べるそうだ。皮下脂肪を増やして寒い冬に備えるためだろうか、リトアニアの豚肉消費量は世界でも5本の指に入る
-
ヴィリニュス 黒パンとツェペリナイ。ライ麦の入った黒パンは主食。ツェペリナイは挽肉などが入ったもちもちのジャガイモ団子、サワークリームをつけていただく。飛行船ツェッペリン号に形が似ているのでこう呼ばれている。伝統的な食べ物だが、リトアニアでジャガイモが食べられるようになったのは18世紀だそうだ
-
ヴィリニュス 夜明けの門から旧市街を覗く。16世紀始め、リトアニア大公国の首都だったヴィリニュスに、タタールの侵入に備えて城壁が築かれ9つの門が設けられた。それらのうち、現存するのは南端のこの門のみ
-
ヴィリニュス 夜明けの門のチャペル。16世紀、敵の攻撃から街を護り旅行者を祝福するために、門には宗教的なモニュメントが造られた。ここには奇跡を起こす聖母マリアのイコンがあり、リトアニア国内だけでなくポーランドからも巡礼者が訪れる。日曜日の今日はミサが行われていて、通りがかりの人たちも窓の下で祈りを捧げていた
-
ヴィリニュス 聖テレサ教会で祈りを捧げる人々。バロック様式のファサードとロココ調のチャペルが大変美しい。旧市街には教会が30ほどあり、ほとんどがカトリック教会。住民700人あたり教会が一つある計算になるそうだ
-
ヴィリニュス ヴィリニュス大聖堂と鐘楼、そしてカテドラル広場のゲディミナス大公像。軍事パレードを始め様々な行事が開催される広場は、19世紀のカテドラル再建時に周辺を一掃して造られた。ゲディミナス大公は、14世紀に夢のお告げからヴィリニュスを首都と定め、キリスト教改宗の名目で侵攻してきたドイツ騎士団と抗戦しながらリトアニア大公国の基礎を築いた
-
ヴィリニュス 旧市街にある旧市庁舎前広場。ヴィリニュスは他のバルト三国の首都であるタリンやリガと比べると、ドイツ騎士団やハンザ同盟の影響がなく、バロック、ゴシック、ルネサンスなど様々な様式の美しい建物が立ち並ぶ
-
ヴィリニュス セグウェイで出勤するビジネマンと2両続きの路線バス
-
ヴィリニュス シナゴーグ。13世紀にヴィリニュスにユダヤ人コミュニティーが誕生して以来、ユダヤ人は都市住民として増え続け、20世紀初頭には10万人に達し市の人口の約半分を占めていた。しかし第二次世界大戦中のホロコーストで虐殺され、ユダヤ人関連施設は破壊された。このシナゴーグは、現存する唯一の施設
-
ヴィリニュス 国立ユダヤ博物館ホロコースト展示館。リトアニアのユダヤ人に対してどのようにホロコーストが遂行されたかが、当時の写真や資料を用いてパネル展示されていた。ユダヤ人救済に尽力した人々のパネルには、命のビザで知られる杉原千畝氏の解説があった
-
ヴィリニュス 大量虐殺犠牲者博物館。第二次大戦からソ連邦時代にわたって行われた、リトアニア人に対する虐殺とその犠牲者やリトアニア人の抵抗を記録した博物館。建物の外に、子供たちが描いたジェノサイドのイメージが展示されていた
-
ヴィリニュス 大量虐殺犠牲者博物館。この博物館の建物は、ソ連時代にソ連国家保安委員会(KGB)つまり秘密警察だった。地下には当時実際に使われていた牢屋、拷問部屋、処刑部屋がそのまま残されていて見学できる
-
ヴィリニュス 産業と建設を象徴する二人の像。ネリス川にかかる旧市街と新市街を結ぶ緑橋には、ソ連時代に建造された社会階層の理想像が、文化遺産としてそのまま残されていた。橋のたもと4か所に立つこれらの像の保存について、人々の意見は分かれている
-
ヴィリニュス 新市街。その橋を渡った先にある新市街はガラス張りのビルがいくつか立っているだけで、がらんとしていた。ビルの前をいまだに路面電車が走っている
-
ヴィリニュス ヴィルナ川で憩う人々。小さな首都の中心部はのどかだ
-
ヴィリニュス ウズピス共和国憲法。旧市街からヴィルナ川を挟んだところにウズピスというボヘミアンな地区があり、住民7000人のうち1000人が芸術家だ。1997年、住民たちが共和国を宣言し、独自の旗、国家、大統領と閣僚に憲法などを制定した。「誰もがぶらぶらする権利を有する」「誰も暴力を有する権利を持たない」といった39箇条が、15の言語で書かれて道に張り出されている
-
ヴィリニュス ウズピスの天使像。東欧の復活と芸術の自由を象徴している
-
ヴィリニュス 「人は箱か?」展。人は社会通念や型や偏見にはめられなければならない市民なのか、といったことを考えさせる展示が、旧市街の壁を使って行われていた。作品は、様々な市民の写真だった
-
ヴィリニュス フルクサスの小部屋。リトアニア系アメリカ人のジョージ・マチューナスが唱えて1960年代に始まった、それまでの芸術の概念を解体する前衛芸術運動、「フルクサス」の作品を展示する小部屋が、現代アート・センターに設けられていた。リトアニアの独立革命を指導した政治家ランズベルギスも、フルクサスに参加したことがある
-
ヴィリニュス アンタカルニス墓地。血の日曜日事件の犠牲者やリトアニアの著名人が、郊外の丘にある背の高い木々に囲まれた静かな森に眠っていた。墓石に立つ十字架に、木の幹を模したものがあった
-
ヴィリニュス アンタカルニス墓地のポーランド兵士の墓標。20世紀始めのポーランド・リトアニア戦争で没した兵士たちの墓。他にも、19世紀のナポレオンのロシア遠征で戦没した兵士、第一次大戦で戦死したリトアニア、ロシア、ドイツの兵士、第二次大戦で没した赤軍の墓があり、軍人墓地とも呼ばれている
-
ヴィリニュス アンタカルニス墓地のアルギルダス・ブラザウスカスの墓。リトアニア共産党独立派のリーダーとして共産党の一党独裁や民衆集中制を放棄し、リトアニアが独立を回復した後、初代大統領となったブラザウスカス氏の墓が、墓地の中心にあった
-
ヴィリニュス 三つの十字架の丘。ヴィリニュスを一望できる丘に立つ。ここには昔から大きな木造の十字架が立っていたが、19世紀に傷んで倒れ、再建したもののソ連に引き倒され、その後コンクリートで再建された。十字架の由来については諸説あるが、この丘からの眺めは素晴らしかった
-
シャウレイ 十字架の丘。ヴィリニュスからバスで3時間のシャウレイに十字架で埋め尽くされた小さな丘があり、犠牲者に祈りを捧げ平和を希求する巡礼地となっている。19世紀に独立戦争の死者を悼み十字架が立てられるようになり、ソ連時代当局によって何度撤去されても、リトアニアの人々がここを訪れては十字架を捧げ続け、非暴力による抵抗を象徴する場となった。どの管轄下にもないので、誰もが自由に十字架を捧げることができ、今では大小10万本以上があるといわれている
-
関連記事
-
【地球の旅人 東苑泰子の東遊西撮記】 第2回 色の洪水 南米の春祭り「黒い母」
-
【地球の旅人 東苑泰子の東遊西撮記】 第1回 シリア 親切な人々― 人懐っこい笑顔と警戒心
-
【地球の旅人 東苑泰子の東遊西撮記】 第6回 ロシア 流暢な英語で自虐ネタ飛ばす好青年たち
写真の記事を読む