『Walk Tall: The Music & Life of Julian
『Walk Tall: The Music & Life of Julian "Cannonball" Adderley』By Cary Ginell

■第二章(A New York Minute)より抜粋

『カフェ・ボヘミア』は、定期的にジャズ・パフォーマンスを提供するマンハッタンに数多くある小さなナイトクラブの一つだった。店は、グリニッチヴィレッジのバロー・ストリート15番地にあり、ジミー・ガローファロという人物が1949年に、ストリップ・クラブとして開業した。

 1955年初期、チャーリー・パーカーが、ぶらりとクラブを訪れ、ハウス・バンドと共演する。チャールズ・ミンガスによれば、パーカーは、ガローファロにツケがあり、演奏によって清算することを提案したという。ガローファロは、パーカーの絶大な影響力を実感し、店をジャズ・クラブに模様替えした。そして『カフェ・ボヘミア』は、ヴィレッジにおけるビバップの新しい発信地になった。

 ガローファロにとって不運にも、パーカーは、このジャズ・クラブで一度も演奏できずに、世を去った。だがクラブは、パーカーゆかりの店として評判になり、人々が押し寄せた。また、ハウス・バンドも新たに結成される。ベーシスト、オスカー・ペティフォードが率いるジャズ・コンボは、ピアニスト、ホレス・シルヴァー、ドラマー、ケニー・クラーク、トロンボーン奏者ジミー・クリーヴランド、リード奏者ジェローム・リチャードソンという顔ぶれだった。

 ジュリアン・アダレイは、ニューヨーク大学で大学院の講義を受けるため、ニューヨークに来た。彼は実際、入学し博士号を取るべきか検討していた。
 彼が、故郷フロリダを発つ前、弟ナットは、ニューヨークまでの長距離ドライヴに付き合い、交代で運転しようと買って出る。ナットはまた、ギグで演奏する可能性についても、彼に話をしていた。キャノンボールの回想によれば、ナットは、彼がR&Bのシンガー(おそらくはルース・ブラウン)と共演する手はずを整えていたという。そうして、アルト・サックスが、旅行鞄とともにトランクに収められた。   

 2人は、6月17日の金曜日に町を出発し、19日の日曜日にマンハッタンに到着した。彼らは、ナットのライオネル・ハンプトン・バンド時代からの友人、トロンボーン奏者のジョージ・“バスター”・クーパーと落ち合う。ナットとバスターは、『カフェ・ボヘミア』に立ち寄り、ペティフォードのビバップ・バンドで演奏する共通の友人ジミー・クリーヴランドに会いたいと思った。彼らは、バスターの兄弟スティーヴを拾った後、クラブに向かい、長くて狭い店の奥の席に座った。

 ギグは、始まっていなかった。ジェローム・リチャードソンが、まだ姿を見せなかった。一説では、レコーディング・セッションに加わっていたと言われている。ミュージシャンには、暗黙のルールがあり、レコーディングの予定が入れば、代役を立てられた。だが、リチャードソンの代役は現れず、開演の時間が迫っていた。几帳面なペティフォードは、アルト抜きで演奏することを拒み、代わりに演奏できる人物がいないか、必死で店内を見回した。

 ジャズ界では、無名から一躍有名になったサクセス・ストーリーは、決して珍しくないが、その夜、『カフェ・ボヘミア』で主役を演じた無名のミュージシャンは、前代未聞のセンセーションを巻き起こした。ジュリアン・”キャノンボール”・アダレイは、絶妙のタイミングで、絶好のシチュエーションに登場した、まさに打ってつけのプレイヤーだった。

 ペティフォードは、客席にサックス奏者チャーリー・ラウズを見つけ、リチャードソンの代わりに演奏できるか尋ねた。だがラウズは、ホーンが手元にないと答えた。ペティフォードは次に、それぞれの楽器ケースを携えて奥の席に座っているアダレイ兄弟とクーパー兄弟を見つけ出した(ニューヨークでは楽器を残して降車する者はいなかった)。

 ペティフォードは、ラウズをわきに呼び寄せ、「おい、奥の席にアルトを持っているやつがいる。あのテナー・パートは移調できるだろ」と言った。ラウズは一度、フロリダでキャノンボールと共演し、顔見知りだった。彼は、キャノンボールの席に行き、挨拶をした。だが彼は、「ホーンを貸してくれ」と言わず、「ベティフォードのバンドに加わってくれ」と言った。ラウズはおそらく、冗談のつもりで無理強いをした。なぜなら、フロリダ出身の音楽教師であり、ポップやR&Bのシンガーをバッキングするラウンジ・ミュージックのプレイヤーであるキャノンボールと、ニューヨークの優れたビバップ・バンドの共演は、あきらかにミスマッチだった。

 だが、キャノンボールは躊躇わなかった。彼は、「もちろんだよ」と言い、アルトをケースから取り出した。とはいえ彼が、「やる気は十分あったが、まったく面識のないペティフォードのグループと、リハーサルもなく演奏する羽目になり、怖くて震え上がった」と、後に述懐している。[次回8/18(月)更新予定]