『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』カーメン・マクレエ・アローン~ライヴ・アット・ザ・ダグ
『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』カーメン・マクレエ・アローン~ライヴ・アット・ザ・ダグ

As Time Goes By / Carmen McRae Alone - Live At The DUG (JVC [Victor])

 1973年11月、カーメン・マクレエは3年ぶりに四度目となる来日を果たす。この度はカウント・ベイシー楽団とのジョイント・ツアーだった。私事で恐縮だが社会人になって初めて足を運んだコンサートだ。その春に父が営んでいた町工場への入社を余儀なくされ残業と休出が続くなかコンサートに出かけるなどは夢のまた夢だった。無理を押してまで公演に向かわせたのはベイシー楽団だ。カーメンも御三家では一番のお気に入りだった。名盤『アフター・グロウ』(1957年3月・4月/Decca)や『ブック・オブ・バラーズ』(1958年12月/Kapp)での清楚で知的な歌唱に惹かれていたのだ。ただ、当時の最新作『グレート・アメリカン・ソングブック』(1971年11月/Atlantic)で見せる姉御肌の重厚な歌唱にはまだ馴染めずにいたからオマケくらいにしか見ていなかったように思う。やはり好印象は残らなかったが、それだけに本作に接したときは感激もひとしおだった。

 日本側の当初の企画は彼女が帯同したピアニスト、トム・ガーヴィンとのデュオによるバラード集だった。ステージを聴いてみたところどうもしっくりこず日本人ピアニストや来日中のテディ・ウィルソンとの共演も考えたが急造になりかねず、そもそもカーメンがガーヴィン以外との共演に難色を示した。窮余の策でカーメン自身による弾き語りというアイデアをぶつけたのである。カーメンにはまったく相手にされず、マネージャーにまで猛反発されてしまう。やがて日本側の熱意にほだされたカーメンは話に耳を傾け始める。曰く「私の弾き語りの持ち歌は3つばかりしきゃないよ。それだけじゃどうするのかね」。それに答えた1曲しか歌えなくても喜んで録音しましょうという必死の説得が実を結ぶ。彼女も本気モードになり「あの歌も思い出せば、この歌も出来そうだ」とやってるうちに本作に収録された全曲が出揃い、終にはカーメンも大いに乗り気になったということだ。

 それら10曲は有名なスタンダードと知られざる佳曲に二分される。オーソドックスだが意外にモダンなヴォイシングも交えるピアノはカーメンの持ち味にピッタリで、巧いとか下手とか好きとか嫌いとかの次元を超えるものだ。そんな好サポート?を得てカーメンは歌の心と魂を自然に虚心に綴っていく。ここには「惚れた腫れた」で無暗に感情移入する凡手に望むべくもない、トップ・クラスの歌手だけが描き出せる豊饒な歌の世界がある。《ラスト・タイム・フォー・ラヴ》を筆頭に、比類なき説得力が心安らかな感動に導く。これらの名唱の前には声が太くなったとか語り口が重くなったとかいうのはケチな不満に思えてくる。優れた録音と余計な演出を省いた簡素なステージ運びも名唱に華を添えた。長い歳月を経たいまもなお、まさにそこで演唱されているかのようにフレッシュに響く。読者諸兄も当夜の「ダグ」の聴衆に交って至福のひと時を味わっていただければと思う。

 去る6月17日、お茶の水「グラウアー」で「ダグ」のオーナー、中平穂積氏のトーク・イヴェントが催された。参加された本サイトの執筆者、後藤雅洋氏のレポートによれば、中平氏から本作が録音された当日のケッサクな裏話が披露されている。昼の公演を終えて駆けつけたカーメンはなぜかラーメンを所望し、近所のラーメン屋から出前された一杯を平らげるとなんと「おかわり」を求め、これも完食したのちに、やおら弾き語りの録音に臨んだというのである。名唱のかげに二杯のラーメンがあったとは! 後年のパワフルでコッテリした味わいは嗜好の変化によるのかもしれない。ともあれ、それからしばらくは中平氏の周りで「ラーメン・マクレエ」なる洒落が流行ったという。微笑ましい逸話だ。

【収録曲一覧】
1. As Time Goes By
2. I Could Have Told You So
3. More Than You Know
4. I Can't Escape From You
5. Try A Little Tenderness
6. The Last Time For Love
7. Supper Time
8. Do You Know Why?
9. But Not For Me
10. Please Be Kind

Carmen McRae (vo, p)

Recorded At The DUG, Tokyo, November 21, 1973.