『AFTER HOURS AT MINTON'S』
『AFTER HOURS AT MINTON'S』
『Tempus Fugue-It』
『Tempus Fugue-It』
『Intuition』
『Intuition』
『Horace Silver Trio』
『Horace Silver Trio』

●セロニアス・モンク(1917‐1982)

非西洋的アプローチの継承者

 ジャズ・ピアノの歴史は、西洋音楽の権化というべきこの楽器にアフリカの発音を叩きこむことから始まった。ストライドやブギ・ウギのポリリズミックでパーカッシヴでアクロバティックな奏法は、この楽器に対する黒人らしいアプローチだ。しかしスウィング期に入ると西洋的洗練(ピアニスティックな奏法)が進行し、それが主流になった。そんななか、モンクはストライドの伝統を継承・発展させ、ビ・バップとは異なる方法でモダン化を果たす。是非や優劣を論ずるつもりはないが、モンク度と黒人度は比例すると思う。

 ノース・キャロライナ州ロッキー・マウントに生まれ、ニューヨークのサン・ホワン・ヒルで育つ。5歳でピアノに親しみ、11歳でレッスンを受け始め、14歳のときにはアマ・コンテストで優勝している。17歳で高校を中退、福音伝道隊に加わって19歳までツアーに出た。「普通に」凄い技巧派だったとされる。36年にニューヨークに戻ると、2年ほど女性歌手ヘレン・ヒュームズの伴奏を務めた。ここまでの録音はない。39年にミントンズ・プレイハウスで演奏し始める。ここで41年に録られた私的録音がモンク最初期の記録だ。

バッパーではないモダニスト

 『ザ・ハーレム・ジャズ・シーン‐1941』の3曲は、いまでは別人だと判明している。モンクとされる2曲ではスウィング色が濃く、ケニー・カーシー説もあるが、拍節を意に介さない字あまり風フレーズはモンクだろう。「らしさ」は同時期の『アフター・アワーズ・アット・ミントンズ』のほうで出ていて、ステディな左手はストライド系だが、ねじれた右手はのちのモンクに通じる。「文句なしにモンクだ」という演奏もなければ、誰かの影を指摘できる演奏もない。過渡期は過渡期だが、後期に属するのではないだろうか。

 定説のテディ・ウィルソンからの影響があったとしても、ここでの匿名性の高い演奏は模倣の域を脱したことを物語っている。デューク・エリントンについても、サウンド・クリエイターの鑑として見ていたのではないか。ピアニストとしての近似性は感じられず、むしろエリントンのほうが影響された節がある。公式初録音は44年10月、コールマン・ホーキンス(テナー)のセッションだ。ユニークなメロディー感覚、和声感覚、タイム感覚と、黒人の原初的な感覚に裏打ちされた、ビ・バップと異なるモダン化を達成している。

 完成したユニークなスタイルは47年10月に始まるリーダー・セッションにとらえられている。早くもモンク・スタンダードが出揃っていて驚きだ。ユニークなスタイルはさておき、西洋音楽の和声や拍節にとらわれない理念は継承された。さすがに黒人しか見当たらない。同世代ではハービー・ニコルズ、エルモ・ホープが、ハード・バッパーではランディ・ウェストン、マル・ウォルドロンが、前衛派ではセシル・テイラー、モンク~セシル系のアンドリュー・ヒルがいる。より若い世代にとっては、モンクは必修科目のようだ。

●バド・パウエル(1924‐1966)

ジャズ・ピアノ史上の革命児

 バド・パウエルの出現により、ジャズ・ピアノの歴史はそれ以前と以後に分けられることになった。パウエルは左手のバッキングをストライド流の規則的なビートからオフ・ビート感覚の不規則なビートに、右手のソロをメロディック・アプローチからバップの語法にのっとったコーダル・アプローチに置き換える。そのスタイルはジャズ・ピアノの標準となり、ビル・エヴァンスが出現するまで絶大な影響力を誇った。チャーリー・パーカー(アルト)とならぶ天才で革命児だったパウエルに、先人の影はうかがえないだろうか。

 ニューヨークで音楽一家に生まれ、6歳でピアノを始め、7年間はバッハからドビッシーまでクラシック・ピアノを習得した。早くから驚異的な技巧だったと伝えられる。10代の前半にジャズに魅せられ、アート・テイタム、テディ、ナット・コール、ビリー・カイルなどに親しんだ。15歳で高校を中退し、兄ウィリアム(トランペット)のバンドでプロ入りする。41年から43年にかけては二三のバンドで活動し、アフター・アワーズはハーレムのクラブに足繁く通い、その頃に知り合ったモンクから多くの音楽的な示唆をうけた。

スウィングからビ・バップへ

 43年にクーティー・ウィリアムス楽団に入団する。初録音は44年1月、選抜メンバーによるコンボ演奏だ。左手は既に断続的だが規則性はあり、ブギ・ウギ風の進行やカウント・ベイシー風のフィルをはさむなど、楽想とかけ離れていない。右手はカイル流のソロやテイタム流のバラードを弾く一方で、《フロッギー・ブー》などではバップ風のソロをとっている。5月の《ロール・エム》ではストライドの素養を示し、8月の《ブルー・ガーデン・ブルース》はバップ目前だ。こうした新旧同居を過渡期の現象と見るべきか、楽想にあわせたと見るべきか、後者と思いたいが、前者も乗っているだけに、実に悩ましい。

 退団後の45年1月、警官の殴打がもとで療養を余儀なくされる。5月に復帰、フランク・ソコロウ(テナー)のセッションに参加するが、目だった変化はない。頭痛の後遺症が続いていた。治療に赴いたパウエルはやがて精神病院に送られる。46年1月に復帰、デクスター・ゴードン(テナー)のセッションに参加する。紛れもなくパウエルだ。入院中の電気ショック療法が功を奏するはずもない。ようやく本領を発揮できるセッションに参加できたと見るべきだろう。ここにパウエルはモダン・ジャズ・ピアノの幕開けを告げた。

 多くがパウエルの影響から逃れられなかった。モンクのところであげたピアニストですら、大なり小なり影響をうけている。しかし、天才を超える者が出てくるはずもなく、パーカーがそうだったように、いま1人のパウエルも生まれなかった。パウエルを出発点として独自の語り口を身につけた者としては、黒人ではウエスト派のハンプトン・ホーズ、ハード・バッパーのケニー・ドリュー、トミー・フラナガン、ウィントン・ケリーをあげておこう。白人では「ホワイト・パウエル」ことクロード・ウィリアムソンが代表格だ。

●レニー・トリスターノ(1919‐1978)

クール・ジャズの旗手

 ピアニストで理論家のレニー・トリスターノは、ビ・バップの全盛期にクールな楽想を打ちだし、クール・ジャズの一方の旗手となった。ビ・バップと同様に既成曲のコード進行の枠組みを使いつつも、現代音楽の技法をとりいれ、和声の解釈を拡大し、流動的なラインと対位法によるインタープレイでもって、ビ・バップとは異質のジャズを創造する。それは決して冷ややかなものではなく時にホットですらあったのだが、感覚上は知的でクールに響いた。ピアニストとしても、パウエルとエヴァンスの間に位置する重要人物だ。

 シカゴに生まれる。生まれつき弱視で、10歳で失明した。母からピアノを手ほどきされ、28年に盲学校に入り、楽理と多くの楽器を習得する。そのかたわら、12歳でピアニストとしてプロ活動を始めた。卒業後、音楽院に進み、4年のコースを3年で終え、43年に修士号を得る。戦争中はクラリネット奏者としてディキシー・バンドを率い、テナー奏者としてルンバ楽団で活動するなどした。その頃に知りあって弟子になったリー・コニッツ(アルト)によれば凄腕だったという。45年までにピアノに専念し、ラウンジで演奏する。

孤高のスタイリスト

 初録音は45年5月、エメット・カールズ(テナー)のセッションだ。ロックド・ハンズ・ソロにミルト・バックナーの、シングル・トーン・ソロにテイタムの影がうかがえるが、和声が先をいき、書譜のように完成度が高い。46年春のソロも同様だ。46年夏にニューヨークに出る。10月のトリオ録音ではビリー・バウアー(ギター)との一心同体ぶりが見事だ。47年12月までに残したトリオ、ソロ、クァルテット録音も同様で、斬新なアプローチはさておき、快適にスウィングしている。巧いシアリングといった印象で愛想もいい。

 録音スト明けの49年1月からコニッツらと一派の理念を結集した録音を残していく。トリスターノから笑みが消える。感覚を研ぎ澄まし、峻厳な態度で音楽に向かう姿はトリスターノにほかならない。スト中に弟子と研鑽を重ね、それとともに孤高のスタイルを完成させたと見るべきだろう。カルト集団に似て、被影響者はほぼ弟子に限られた。ピアニストではサル・モスカとロニー・ボールがいる。部外者に大物がいた。ジョージ・シアリングとエヴァンスだ。トリスターノを聴いていると、2人を彷彿させる場面が少なくない。

●ホレス・シルヴァー(1928‐)

ファンキー・ジャズの立役者

 50年代の後半、ホレス・シルヴァーはファンキー・ジャズの立役者として、時代の寵児となった。歯切れのよい弾むようなタッチ、アーシーな感覚、異国情緒が魅力的なスタイリストで、多くの追随者を生む。作曲の才にも恵まれ、《オパス・デ・ファンク》《ドゥードゥリン》など、ジャズ・スタンダードとなった多くの名曲を生みだす。また、70年代にかけて、自己のグループから優れた奏者が輩出した。テナーのジョー・ヘンダーソンとマイケル・ブレッカー、トランペットのドナルド・バードとウディ・ショウなどがいる。

 コネティカット州ノーフォークで、カボヴェルデ(西アフリカ西方の島々)出身のポルトガル人を父として生まれる。最初期の音楽体験は父が歌う同地のフォーク・ソングだった。中学でバリトン、高校でテナーとピアノを始め、ブルース、ブギ・ウギ、ビ・バップに魅せられる。卒業後サックス奏者としてデビューするが、やがてピアノに専念し、ハートフォード周辺で活動した。50年、同地のクラブに出演したスタン・ゲッツ(テナー)を伴奏、気に入ったゲッツにアル・ヘイグの後釜として雇われ、ニューヨークに進出する。

ビ・バップからハード・バップへ

 初録音は50年12月、ゲッツのセッションだ。未完成だが新しい。パウエルが右手に委ねたドライヴ感を、両手のリズミックなコンビネーションで生みだしている。コールに示唆されたものだと見るが、新鮮に響く。ただ、ギクシャクしたソロは青臭いパウエルといったところだ。51年8月のセッションでは手数が減り、ソロも流麗で小気味よいものに、52年4月のライヴ録音では一段とスウィンギーになっている。ゲッツのグループを退団、6月にルー・ドナルドソン(アルト)のセッションに参加し、飛躍のチャンスをつかんだ。

 ルーのセッションで認められ、10月に初リーダー・セッションに臨む。脱ビ・バップ志向が明確になり、ファンキーな感覚も打ちだしている。53年11月のリーダー・セッションでは格段に成長し、個性的なスタイルは完成間近だ。ハード・バップを代表するスタイルは54年11月のリーダー・セッションで完成を見る。それは脱ビ・バップを模索する者の格好のモデルになった。黒人ではウエスト派のホーズ、前衛派のセシルが、白人ではウエスト派のウィリアムソン、ピート・ジョリー、イースト派のジョン・ウィリアムスがいる。

●参考音源(抜粋)

[Thelonious Monk]
The Harlem Jazz Scene-1941/V.A. (41.5 Esoteric)
After Hours at Minton's/Thelonious Monk (41.5 Difinitive)
Bean and the Boys/Coleman Hawkins (44.10 Prestige)
Genius of Modern Music/Thelonious Monk (47.10-52.5 Blue Note)

[Bud Powell]
Tempus Fugue-It/Bud Powell (44.1-49.12 Proper)

[Lennie Tristano]
Intuition/Lennie Tristano (45.5-52.7 Proper)

[Horace Silver]
The Sound/Stan Getz (50.12 Roost)
Chamber Music & Split Kick/Stan Getz (51.1 & 8 Roost)
Stan Getz Quintet Birdland Sessions 1952 (52.4 Fresh Sound)
Lou Donaldson Quartet/Quintet/Sextet (52.6 & 11 Blue Note)
Horace Silver Trio (52.10 & 53.11 Blue Note)
Horace Silver and The Jazz Messengers (54.11 & 55.2 Blue Note)