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写真家・宮嶋康彦「東京の桜」 花見の騒ぎは徳川吉宗の時代から問題だった!?

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宮嶋康彦dot.#アサヒカメラ
新宿御苑は東京の新しい花見のスポットといえる。数年前から外国人の入園が急増、日本の花見に同化する光景が目立つようになった■コニカヘキサー・トライX

新宿御苑は東京の新しい花見のスポットといえる。数年前から外国人の入園が急増、日本の花見に同化する光景が目立つようになった■コニカヘキサー・トライX

 吉宗(1684~1751年)が将軍になったころは、頽廃(たいはい)と享楽が世情に蔓延(まんえん)していたといわれている。そんな中で桜の花見は、数少ない楽しみの一つとして盛況を極めたようだ。上野のお山が花見の名所であった。寛永寺や孔子廟の周囲に数多くの桜が植栽されていたという。勢い、庶民は上野の桜の山に押しかけて花の元禄を享受した。ところが、あまりにも喧騒がすぎたらしい。鳴り物が禁じられ、花見の宴は日没まで、と刻限が決められる始末であった。

 吉宗は市井の暮らしに気配りをした将軍として知られている。幕府は上野の山の一極集中の花見を憂えて、新しい花の名所を造ることで治定を図った。隅田堤、品川御殿山、飛鳥山、多摩の小金井村などが選定された。そこで多くの桜の植樹が必要となる。そのような社会情勢の中で染井吉野が栽培されたのだろう。生育が早くて、花つきがよい、クローンだからいっせいに花が咲く。そういった特性を持つ染井吉野が植栽されて、自由な花見を待望する江戸庶民は喜んだに違いない。

皇居内堀は落花のころに花筏(はないかだ)が見られることで知られている。桜の生を終えた花びらの上をボートが航跡を描く。東京・九段■ペンタックス645・smcペンタックス645 75ミリF2.8・トライX

皇居内堀は落花のころに花筏(はないかだ)が見られることで知られている。桜の生を終えた花びらの上をボートが航跡を描く。東京・九段■ペンタックス645・smcペンタックス645 75ミリF2.8・トライX

 染井吉野の全国伝播は、明治という近代化の波に乗ったと推測される。殖産興業、富国強兵の大号令の中、成長の早い染井吉野が重宝されたに違いない。

 ただ、売り出された当初は名前が違っていた。初めは桜の名所として全国に知られた奈良県の吉野にあやかって「吉野桜」と愛称されていたという。それが、「染井吉野」と命名されたのは明治30年ころのことで、東京帝室博物館(現東京国立博物館)天産部の職員、藤野寄命(きめい)が本家の吉野との混同を避けたといわれている。また、染井吉野の先祖探索の遺伝子研究の結果、オオシマザクラとヒガンザクラ系の掛け合わせであることがわかってきた。

 花見は文明の成熟から生じた遊行である。東京人は染井吉野という花園で生まれ育ち、愛でるのである。(文/宮嶋康彦)
(写真右)桜の季節の墓地では先祖と花見をする人を見かけるようになる。そこに見かける人が、果たしてこの世の人か、あの世の霊か、わからなくなる。東京都港区■ニコンF3・Aiニッコール50ミリF1.4・トライX/(写真左)駅のプラットホームから見える桜は日常とかけ離れた光景のせいか、ふと、足を止めたくなる。東京・東京メトロ四ツ谷駅■ニコンF3・Aiニッコール50ミリF1.4・トライX

(写真右)桜の季節の墓地では先祖と花見をする人を見かけるようになる。そこに見かける人が、果たしてこの世の人か、あの世の霊か、わからなくなる。東京都港区■ニコンF3・Aiニッコール50ミリF1.4・トライX/(写真左)駅のプラットホームから見える桜は日常とかけ離れた光景のせいか、ふと、足を止めたくなる。東京・東京メトロ四ツ谷駅■ニコンF3・Aiニッコール50ミリF1.4・トライX

※アサヒカメラ3月号から抜粋



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