筆者の近藤康太郎氏
筆者の近藤康太郎氏

一流の知識人による下読み

 どうでもいいことだが、合議の場では豪華な弁当が出る。合議のあとも、希望する書評委員が居残って社内のレストランで歓談する。一種の知識人サロンのようだ。この知的歓談が楽しみで、わざわざ書評委員会に出てくる人だっている。

 もっとどうでもいいことだが、書評委員会の先生方は、自宅や職場まで、黒塗りのハイヤーで送り迎えする。いずれもコロナ前の話だが、これが常態だった。こんなぜいたくが許されるのかと糾弾したいのではない。カネを払っているのは新聞社だ。必要と思う取材には、いくらでもカネをかけたらいい。

 そうではなく、このように、時間も、カネも、人手もかけて作られているのが、新聞の読書面だということだ。

 これだけのカネや手間ひまをかけて、彼らはなにをしているのか。「わたしのため」に、下読みしてくれているのである。

 新聞各社の書評委員は、日本でも有数の知識人だ。その、プロ中のプロである「本読み」が、あまたある新刊書の中からの選りすぐりを、難しい専門書も、高価な学術書も、ベストセラーや手軽な文庫・新書も含めて、「わたしのため」に下読みしてくれているのである。本の読みどころを、紹介してくれているのである。

 これを利用しない手はない。大きな声で言えないが、わたしなどは、新聞は書評だけ読んでいればいいとさえ思っている。

新聞書評は各紙読み、図書館へ

 ただ、一紙ではだめだ。朝日、毎日、読売、日経、産経の全国紙。さらに、東京に住んでいるなら東京新聞や、地方在住ならブロック紙、地方紙と呼ばれる地元の新聞を入れて合計六紙。すべての書評欄に目を通す。

 新聞をよくそろえている喫茶店で、土曜と日曜に、書評を読みながら数時間を過ごすなんて、ぜいたくな時間の使い方だろう。そんな喫茶店がないのなら、土曜、あるいは日曜の、書評が載る日だけ新聞を買う。六紙買っても千円ほど。

 喫茶店に行くカネがない。新聞を買う余裕もない。そういう人は、最寄りの図書館へ行けばいい。

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「一年前の書評」がなぜ役立つのか?