※写真はイメージです(gettyimages)
※写真はイメージです(gettyimages)

 徳川家康は、関白秀吉に「私は殿下のように名物の茶器や名刀は持たないが、命を賭して仕えてくれる五百ほどの家臣が宝」と、控えめに誇ったという。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、徳川家を支えた猛将、智将、忠臣などを、歴史学者の小和田泰経氏が採点。各武将の生き様と能力を解説している。今回は、予言者のごとく頭脳で支えた「智将」をピックアップした。1位の酒井忠次は先日報じたが、2位、3位となったのは――。

*  *  *

2位 榊原康政 / 文武両道、知勇兼備とはまさにこの人物

譜代の榊原家でも傍流の出身。13 歳で家康に見出され小姓となった榊原康政が智将の第2位だ。  三河一向一揆の戦いで初陣を飾り、恩賞として家康の一字を与えられ「康政」と称した。

 永禄九年(1566) には本多忠勝・鳥居元忠とともに旗本の先手役に取り立てられ、同心50 騎を付けられた。「徳川三傑」は康政・忠勝・井伊直政の3人を指す。

 三方原の戦いでは、逃げ遅れた味方と夜を待ち、武田軍に一矢を報いてから帰城したった。

 その後の合戦でも先鋒や激戦地を受け持つことが多く、高天神城攻めでも自ら40 余の首級を挙げた。本能寺の変が起きた時には伊賀越えに同行。

 関東入国に際しては上野国館林に10 万石を与えられるが、これは井伊直政に次ぎ、本多忠勝と同列2位の石高だった。

 康政の評判は周辺諸国にも鳴り響き、織田信長への諫言や豊臣秀吉、家康へのとりなしを頼まれることもしばしばだった。

 また、関ヶ原の戦い前年に起こったいわゆる「宇喜多騒動」では、政務実務能力を買われて調停役として派遣された。

 関ヶ原の戦いに際しては秀忠軍に同行しており、秀忠の遅参に激怒した家康を必死になだめ、父子間にわだかまりが残るのを防いだ。

 井伊直政・本多忠勝とともに戦後処理を任されるなど、家康からの信頼は終生変わらなかった。

次のページ
ランキング3位は、家康から親しく「友」と呼ばれた…