承久の乱合戦供養塔は前渡不動山にある=2022年1月7日、岐阜県各務原市
承久の乱合戦供養塔は前渡不動山にある=2022年1月7日、岐阜県各務原市

 鎌倉幕府の権力闘争を描いたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎える。ここでは、鎌倉幕府の滅亡までを特集した週刊朝日ムック「歴史道 Vol.24」から、後鳥羽上皇が武家の頂点に立つ北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」をひも解く。

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 五月十五日に後鳥羽上皇が挙兵を命じたとの情報は、十九日に鎌倉に達する。幕府内に衝撃が走るが、御家人たちの動揺を抑えたのが北条政子の演説である。

 演説の存在自体は有名だが、実は史料によって内容が違う。『吾妻鏡』では、「平氏を倒し幕府を創設して以来、源頼朝から御家人に与えられた御恩は、山より高く海より深い」とその意義を強調する。上皇の命令は一部の臣下の企てだとして彼らの排除を促し、源氏将軍「三代」のレガシーを守り抜こうと訴えている。よく知られた内容だが、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂物であり、後世の歴史認識が混じり込んでいる可能性が否めない。

 一方、乱から約10年後に、乱を実際に体験した貴族によって著された『六代勝事記』という歴史書には、文脈は近似するものの、ニュアンスの異なる演説が記録されている。右の『吾妻鏡』に見える内容と比べた場合、第一に、頼朝の功績の前提として前九年・後三年合戦を戦った頼朝の先祖である源頼義・義家への言及がある。第二に、将軍を「四代」と表現して将軍就任前だが摂家将軍頼経(三寅)の存在が考慮されており、しかも、歴代将軍の事績とされているのは「朝威をかたじけなくする」(朝廷の権威に畏敬の念を持つ)ことである。他にも、仏教が滅びることへの懸念が記されている。

 後世に編纂された『吾妻鏡』は、文脈が近似している『六代勝事記』(もしくは『六代勝事記』が参考にした史料)を基に書かれたと考えられる。源氏の父祖や四代将軍頼経の存在に留意したり、朝廷の権威を重視したりする発想は、乱の起きた承久三年当時の認識としては、十分想定できるものである。『六代勝事記』の方が史実に近い可能性があるだろう。

 一方、趣の異なる演説を記録しているのが軍記物語の『承久記』(慈光寺本)である。すなわち、娘(大姫)・夫(頼朝)・長男(頼家)・次男(実朝)に先立たれ、このままでは弟(義時)にまで先立たれてしまうとの老婆の悲哀が語られる。御家人に対して、上京し天皇御所などを警備する役務の負担軽減に実朝が取り組んだとの「御恩」や、鎌倉の頼朝や実朝の墓が戦火で荒らされれば神仏の加護は失われるとの揺さぶりも語られてはいる。しかし、全体的には政子の身の上が前面に押し出された内容となっている。『吾妻鏡』や『六代勝事記』では、幕府という政権の正当性が強調されているのに対し、『承久記』では政子個人の悲愴な思いが特筆されているといえよう。実際の演説は公私にわたる内容を含んでおり、史料によって注目すべきポイントが異なっているのだと考えられよう。

 さて、政子の演説により幕府内は対上皇でまとまるが、いかなる戦略をとるかについては意見が割れた。北条義時ら首脳部による作戦会議では、足柄と箱根の守備を徹底して上皇軍を迎え撃つとの守勢作戦派が大勢を占めた。足柄と箱根は、伊豆・駿河両国と相模国との境にそびえる足柄山・箱根山を越える際の、北側ルートと南側ルートを指す。足柄峠より東を坂東と呼ぶが、この山地を越えれば関東平野に入り、幕府のある鎌倉までほとんど遮るものがない。幕府にとって足柄と箱根は最終防衛ラインなのだった。

 守勢作戦に異を唱えたのが大江広元である。時の経過に伴い幕府方の結束がゆるみ、士気が低下する恐れがあることから、即時派兵による先制攻撃を主張した。先手必勝の攻勢作戦である。2日後、幕府では再び首脳部の作戦会議が開かれる。本拠の東国を離れて朝廷の軍に戦いを挑むことへの不安が、守勢作戦派から改めて表明される。これに対し攻勢作戦派の広元は、日が経てば経つほど心変わりする者が現れることへの危惧を述べ、北条泰時一人でも今すぐ出陣すべきだと主張した。さらに、老齢で会議を欠席していた三善康信も、北条政子からの諮問に対し、即時派兵を助言した。この結果、まず泰時が先陣を切って、鎌倉を出立することになったのである。

 一連の議論に関して注目すべきは、幕府首脳陣のうち攻勢を主張したのは広元や康信など京の貴族社会で生まれ育った文官だということである。これに対して、北条氏ら有力武士は守勢作戦にこだわり、やや腰が引けているようにも見える。

 武士とは本来貴族に奉仕する身分であり、いみじくも『承久記』に載る政子の演説にあるように「朝威をかたじけなくする」立場に他ならない。有力武士といえども、上皇に反旗を翻し朝廷の軍隊と鉾先を交えることは、あまりに身の程知らずの行動であって躊躇は当然だった。他方、京下りの官人はかえって貴族社会の実情に通じている。それゆえ、上皇軍の態勢が整う前に先手を打つことが何より得策であると判断しえたのだった。

 この間、鎌倉ではやはり京から来た陰陽師により吉凶が占われるが、いずれも幕府の勝利を予言する結果が示された。

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 24 鎌倉幕府の滅亡』から