9月11日の沖縄県知事選で、玉城デニー氏が自公推薦候補らを破り再選を果たした。当選後、「基地問題の解決」と「誰一人取り残さない沖縄の実現」を改めて主張。

 米国人の父を持ち、「戦後沖縄史」を体現しているとも言われる玉城氏が繰り返し訴える「誰一人取り残さない沖縄の実現」。その言葉の裏には、貧しい時代を家族や仲間たちに支えてもらったエピソードがあった――。著書『新時代沖縄の挑戦 誰一人取り残さない未来へ』(朝日新聞出版)から、一部を抜粋・改編してお届けします。

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 沖縄本島中部に勝連半島という、東海岸に突出した半島があります。そこの旧与那城村、現在のうるま市与那城西原で、私は生を享けました。1959(昭和34)年生まれなので、2022年で63歳になります。父は当時、沖縄の米軍基地に駐留していたアメリカ人の海兵隊員で、母はウチナーンチュ、日本人です。私が母のお腹の中にいる時、父に帰国命令が出ました。母は、お腹が大きいので「産んでから行くよ」と。それで父は先にアメリカに戻ったらしいです。

 その後、手紙や写真のやりとりはしばらく続いていたそうですが、私が2歳ぐらいの時に、これから行っても苦労するだけだからと、母はアメリカに行かない決心をしたそうです。「私はもう行きません」と手紙を出して、それっきり。住所を変えても父には教えず、全く連絡を取りませんでした。父からの手紙も写真も、全部燃やしてしまったそうです。

 私が父のことをしつこく聞くので、母は父のファーストネームだけは教えてくれました。「ウィリアム」だと。ただ、それ以上は「もう忘れた!」と一切言ってくれませんでした。なので、私は父の顔も出身地すらも知りません。

 私が生まれた時、母はアメリカに行くつもりでしたので、私を「デニス」と名付けました。それで小さい頃から、友人からは「デニー」と呼ばれていました。現在の本名は「康裕(やすひろ)」です。小学校4年生の時に、母が「これからは日本の社会で仕事をするから、日本の名前に変えよう」と言って、変えたのです。県知事として公共工事を発注する時などは本名の「玉城康裕」で署名しますが、普段は「玉城デニー」で活動しています。記者さんからも「デニーさん」「デニー知事」と呼ばれていますし、中学生から「デニー!」と呼ばれることもあります。この距離感、いかにも沖縄らしくて私は好きです。

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