家督相続にあたっては幕府の許可が要件となっていたが、不文律ながら17歳が相続を許可する境目だった。当時は乳幼児の死亡率が高いだけでなく、壮年となるまでは早世する例も割合多かったことから、諸大名は自衛策として男子の年齢を実年齢より引き上げることが普通である。3~4歳プラスして幕府に届け出ることは慣例化しており、幕府も黙認していた。さもないと、年齢が足りないという理由で相続が認められず、御家断絶(改易)となってしまうからだ。

 改易に処せられる理由は家督相続者がいないことだけではない。幕府が制定した「武家諸法度」の規定に違反した場合も改易だった。幕府に無断で居城を修築したり、あるいは参勤交代を守らなければ徳川一門の大名でも幕府は容赦しなかった。

 こうして、江戸初期には多くの大名が改易されて将軍の権力基盤も強化されたが、やがて幕府は大名の改易を極力避けるようになる。仕える主家を失って路頭に迷う浪人の不満が社会不安をもたらしたからである。その怒りは結局のところ幕府に向けられる。

 よって、よほどの失政や問題がない限り、大名家の存続を認める方針に転換する。従来、幕府は跡継ぎのいない大名が臨終の際に養子を取ること(末まつ期ご養子、急養子と呼ばれる)は認めていなかったが、50歳未満の大名に対しては末期養子を許可すると定めた。

 末期養子の禁を緩和した結果、家督相続者がいないとの理由で改易される大名は激減する。その分浪人の数も減り、幕府が改易による社会不安に悩まされることもなくなった。おのづから泰平の世となっていくのである。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.10』から