阪神・郭李建夫
阪神・郭李建夫

 1球団に外国人選手が7人も8人も在籍することも珍しくない昨今。当然ながら、投手、野手合わせて最大4人の外国人枠からはみ出し、割りを食う選手も出てくるが、この併用問題は、今に始まった話ではない。

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 NPBの長い歴史の中で、外国人枠に泣いた助っ人たちを振り返ってみよう。

 まだ外国人枠が2人だった時代に、3人目の壁に泣いたのが、1993年に阪神入りした郭李建夫だ。

 前年のバルセロナ五輪でチャイニーズタイペイのエースとして銀メダル獲得の立役者となった郭李は五輪後、日本でのプレーを望み、巨人西武など日米数球団の争奪戦の末、4年にわたってラブコールを送りつづけた阪神が獲得した。

 だが、オープン戦で巨人を3イニング無失点に抑え、「日本でやっていける」と自信を深めたのもつかの間、オマリー、パチョレックの両主力が1軍にいたことから、開幕から2軍暮らし。郭李はホームシックに陥り、台湾球界関係者も、“至宝”を1軍で使わないことに、不満をあらわにした。

 こうした状況を、当時社会問題になっていた国連の平和維持活動の略称・PKOをもじり、マスコミは3人の名字の頭文字を取って“PKO問題”と命名した。

 そして、この問題は、7月に入ると、一気に解決へと向かう。

 開幕から微熱や腰痛などの体調不良を訴えていたパチョレックが、7月9日に2度目の登録抹消となったことがきっかけだった。

 代わって1軍昇格をはたした郭李は、同日の巨人戦で1点ビハインドの9回にリリーフし、2死二、三塁のピンチを無失点で切り抜けると、その裏味方が逆転。来日初勝利を挙げ、チームの連敗を「5」で止めた。さらに翌10日の巨人戦もリリーフで2勝目。ここからチームも7連勝と波に乗った。

 パチョレック抜きの快進撃に、中村勝広監督も「良いものを崩す必要はない」と郭李を使いつづけることを明言。その後、パチョレックもシーズン途中に引退し、PKO問題は「OK」で解決となった。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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巨人の韓国人投手“多すぎ”問題