気づいたときにはもう遅い(※写真はイメージ/Gettyimages)
気づいたときにはもう遅い(※写真はイメージ/Gettyimages)

「突っ慳貪(つっけんどん)な印象を持たれ、好感度ダウンとなること必至だろう。だが、好感度を上げたいという欲求は僕には皆無なので、まったく影響を受けずに書いた」

『すべてがFになる』『スカイ・クロラ』数々のベストセラーを生みだした作家・森博嗣氏の新刊『諦めの価値』(朝日新書)からの言葉だ。現在森氏は、労働時間は毎日1時間で、幼い頃からの夢だった「庭園鉄道」(庭に敷設する鉄道模型)を整備する毎日を送っている。森氏が夢を叶えられた理由は、仕事や人間関係など多くを「諦めた」からだという。森氏にとって「諦め」とは何なのか? 森氏に寄せられた人生相談を本書から一部抜粋して紹介する。

*  *  *

■この歳まで、なにも成し遂げられていない

【相談1】
「俺はこれをやった」という仕事が、50歳近くなって、ほとんどありません。諦めるのは早いでしょうか?

 これからそういう仕事をするよう頑張るのか、そういう無駄な気持ちを持たないよう
にするのか、あるいは別の道か、どうすれば良いでしょうか?

【森博嗣さんの答え】
 仕事というものは、「これをやった」というものが存在しなければ、賃金を得ることができません。もし、仕事をして賃金を得ているなら、なにかはしているはずです。

「ほとんどありません」とおっしゃっているのは、おそらく謙遜なのでしょう。

「これをやった」と他者に語れるものがない、という意味かもしれませんが、仕事でなにをしても、大して威張れるようなものではない、と僕は考えています。威張るために仕事をするわけではないからです。

 仕事は、対価を得るために、自分の時間と労力を差し出す行為のことです。賃金が得られたら、それが「やった」ことのすべてと考えるべきです。

 どんなに目立つことをしても、あるいは、どんなに人から感謝されることをしても、それが仕事だったら、偉くもなんともない、と僕は感じます。大変な作業、あるいは才能がなければ成立しない作業であれば、それに応じた賃金が支払われているわけですから、そこで帳尻が合っている。誰にもできる簡単な仕事をして、少ない賃金を得ても、誰にも真似ができない仕事をして、多くの賃金を得ても、どちらが偉いわけでもありません。

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