●吾妻鏡に描かれる源氏の末裔たち

 頼朝の急死により、18歳で家督を継いだ頼家の時代に、北条氏を中心に13人の有力者たちによる合議制が敷かれた。「鎌倉殿の13人」はここから来ている。もちろん北条氏による画策だろう。鎌倉時代を記録した資料に「吾妻鏡」という歴史書があるが、北条氏による記録であることから、将軍家に対する記述は厳しい。源頼家などについての人となりはこれに頼るしかないのだが、自分の子を殺めるという政子の所業を正当化するため、頼家の評価は低くせざるをえないこともあるだろう。それでも、わが子を幽閉し暗殺した場所である修善寺には、頼家のために「指月殿」を建立、菩提を弔っている。ちなみに修善寺という地名は、「修禅萬安禅寺」というこのお寺の名から来ている。弘法大師(空海)によって開山されたお寺で、ご本尊・大日如来を作ったのが、幻の仏師と言われてきた実慶(運慶につながる一派のひとり)であることでも知られている。

●源頼朝の信仰心

 さて、源頼朝は神仏に対する深い信仰心で関東各地に神社仏閣を建立している。挙兵する前に戦勝祈願をしたとされる三嶋大社には、鎌倉幕府から毎年使者が遣わされたし、源氏の祖ともされる源頼義に由縁のある鶴岡八幡宮は幕府の役所的な意味合いも持っていた。神仏混淆であった鶴岡八幡宮寺には「鶴岡二十五坊」と呼ばれるほどの子院が作られている。補陀落寺は頼朝の祈願所として建立されたものだが、そこには寺宝として頼朝が奉納した平家の総大将・平宗盛が最後まで持っていたとされる平家の赤旗が収められている。

 頼朝が没してから、わずか3年余りで初代・執権の北条時政の治世になるのだが、大河ドラマの主人公はこの初代ではなく、2代目・北条義時である。頼朝の義弟(政子の弟)であり、頼家の叔父だ。執権北条の基礎を作り、源氏の血筋を絶やした人物とも言える。特に、明日7月18日(旧暦)が命日となる頼家の殺され方は凄惨だったようで、その様子などは歌舞伎の演目にもなっている「修善寺物語」などにも詳しい。

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