福岡から長崎、鹿児島の指宿などの野山や町を歩いた。元気になれば、短期間の仕事もする。炭焼き、担ぎ屋、唄い屋、ねこぼく屋、羅宇屋、よなげ師、屑屋、思想団体常任委員、用心棒、易者、人夫などである。その中で、彼は福岡県久留米市の詩人丸山豊と出会い、詩を書くようになる。仲間には詩人の谷川雁、川崎洋、松永伍一、森崎和江らがいた。

 高木は九州の野山を目的もなく歩きながら考えた。

「自分とは何だろうと考えて、うすうすわかったのが、自分は体も頭も弱い。不器用で定職にも就けない。人並みの暮らしはできないだろう。一人前になれない、なれないならなれないなりの暮らしもあるだろう」 

 自然の風景を見ながら、「自分は人間だ。人間だけど地球の生き物の一種でしかない。人間も虫も鳥も種類が違うだけで差はないんじゃないか」と考えるようになった。

 やがて北九州市の八幡製鉄所の下請け会社で人夫として働くが、足に大けがを負って働くことができなくなり、松永らの支えもあって上京し、筆一本で生きた。

 高木は酔うと酔眼で語っていた。

「人間も動物と同じなんです。犬やと同じなんです。だから必要以上に儲けてはいけません。一人分以上稼いだ人は泥棒です。大きな家に住む人は横の小さな家に住む者にすみませんと言って住むことです」

 昭和の仕事を語る時に、その根幹の精神に高木の言葉が流れている。それは昭和の仕事を語る時に欠かせない視点である。
 
◆昭和の仕事人の意地

 昭和の仕事を代表する仕事に「紙芝居」がある。紙芝居は今でもイベントなどで行われるが、昭和40年代までは職業として成立していた。紙芝居屋は、無声映画の活弁士が多かった。昭和も二桁に近づくと、映画はトーキーに代わってゆく。そのとき活弁士は失業した。彼らは紙芝居で生きることになった。寺社や団地の空き地などで拍子木を叩くと、子供たちが集まってくる。画面に合わせて、一人で何役も声色を変えてセリフを言える活弁士は紙芝居にはうってつけだった。子供の頃、紙芝居を見せてくれた光永藤雄(故人)は生前語っていた。

「紙芝居はテレビと全然違う。子供も言い回しの面白さがわかるのでしょうなあ。セリフをまねて一緒にしゃべったりする」

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