彼の根底にあったのは「テレビに負けたくない」という反骨心だった。昭和30年代に本県内に300人以上の紙芝居屋がいたが、テレビの普及で減り続け、平成になると九州では光永一人になった。そのテレビも今やスマホを見る人が多く、若い人は見向きもしない。

「ポン菓子」も懐かしい名前である。広場に子供を集めて鉄製の小型の穀類膨張機を使ってとうもろこしや米などで菓子を作る。圧力釜のバルブをハンマーで叩いて減圧すると、爆発音がする。そこからポン菓子と呼ばれるようになった。現在も北九州市でポン菓子機工場を営む吉村利子は、戦争中は国民学校の教師だった。

 食糧不足で子供たちは栄養失調になっていた。そのためこの子たちに穀類でできるお菓子を腹いっぱい食べさせてやりたいと、自分で図面を作って、女性の力でも持ち運びできる「吉村式ポン菓子機」を作り上げた。
戦後すぐは復員した兵士や職を失った行商の人たちが機械を持って販売したが、昭和30年代になると大手菓子メーカーの既製品が出回り、ポン菓子は消えた。今は吉村が数少ないポン菓子工場に携わっている。

 吉村は言う。

「昭和という時代は、愛情というか、人を愛する時代だったような気もします。戦争もあって、子供に消化のいいものをおなか一杯に食べさせてやりたいという一つの愛。ポン菓子を作るおじさんも、金儲けだけじゃなく、子供が食べておいしいことが自分の喜びだった」

 熊本市でペンキ屋を営む北川昭一は語った。

「人はやっぱり生活しないといけないから、職人の知恵ではじめた職業は時代には勝てずに、だんだん減ってゆくのでしょう。庶民の力じゃ及ばない力が働いてくるのですね」

 庶民の及ばない力。そういったものに昭和の仕事は消された。それは勝ちか負けかと判定すれば負けである。便利か不便かといったら不便である。

 だが負けてしまった仕事たちに言い分はないか、耳を澄まして聞く姿勢を問われている。

 今後も巨大資本によって小さな会社や個人商店は淘汰されてゆくだろう。しかし、そこに放浪の詩人高木が語ったように「一人分以上稼いだ人は泥棒」「大きな家に住む人は、横の小さな家に『すみまっせん』と言って住む」という心を持つことができるだろうか。

 これらをふまえ、昭和の仕事は消えるべくして消えたのか、それとも人間の底なしの貪欲さのために、巨大企業がのみ込んでいったのか、その是非を論じなければ、私たちは文明の機器にさらに利用されるだけの存在になるだろう。

 本当の豊かさとは何か、貧しさとは何か、コロナ禍の今だから、あえて昭和の仕事とともに考えてみたい。(澤宮 優)

◆プロフィール
さわみや・ゆう/2004年『巨人軍最強の捕手』(晶文社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。著書に『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』(角川ソフィア文庫)、『昭和の仕事』『集団就職』(ともに弦書房)、『世紀の落球 「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ)、『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(集英社文庫)など多数。