●鎮魂の社「神田明神」

 平将門が大いなる怨霊として取り上げられる理由の多くは江戸時代に上演された歌舞伎などの演目によるところが多いのだろうが、すでに平安時代にいくつかの書物に登場、鎌倉時代にも世の乱れが将門の祟りであるとして大いに供養されている。この供養を担ったのが現在も続く神田明神である(正確には同地にあった日輪寺が中心に供養)。今は御茶ノ水駅近くに鎮座しているが、もともとは大手町の将門塚そばにあった社であるが、江戸時代に現在地へ移転した。現・大手町付近は、伊勢神宮の領田(御田)があり“神田”と呼ばれていたことから、この地にあった神社は「神田明神」と称したのである。なお、現在の地名「神田」は神田明神が移転してきたことから、この名となった。

●射落とされた場所には「御首神社」

 実際には、将門の首が空を飛ぶはずもなく、ひそかに東国へと持ち帰られたものと考えられている。実際、平将門を祭神としてまつる築土神社には、「将門の首桶」が所蔵されていたが、昭和20年の戦火で焼失した(写真のみ残存)。また、持ち帰りの道中になんらかの関係を持ったのであろう岐阜県大垣市に「御首神社」という将門を祀る神社があり、社伝によれば「飛んでいく将門の首を神矢で射落とした」ことで鎮魂を目的に創建されたとある。平将門は、関東で好まれ関西ではむしろ嫌われているようであるが、人気の境目は「御首神社」あたりで分かれているような気がする。

●事件が続く「将門塚」

「将門塚」に話を戻そう。江戸時代には老中・土井利勝、大老・酒井忠清の屋敷内で供養されていたが、5代綱吉治世の時に堀田正俊がここに居を移し、その後、原因不明の理由で身内から暗殺されている。そのためでもあるまいが、この場所は再び酒井家のものとなる。ちなみに歌舞伎で有名な伊達騒動の舞台となったのは、この酒井家で起こった事件である。

 明治時代になり、平将門は朝廷に弓ひいた罪人であるとし、神田明神の本殿から祭神としての将門を外すように命じられた(本殿に復帰は昭和59年のこと)。この頃、将門に対する畏怖はなかったようである。ところが、明治10年、将門塚の上に大蔵省が仮庁舎を建てるが、死者やけが人が続出する。おののいた大蔵省は仮庁舎を壊し、神田明神による鎮魂祭を執り行ったが、将門没年1000年の年大蔵省の本庁舎は落雷を受け炎上。戦後、GHQにより整地されそうになった折には、作業中のブルドーザーが横転、運転手が死亡するという事故が発生し、慌てた日本人はマッカーサーに陳情をし塚を残してもらえることになった、などなど。

 こうして「将門塚」は現在に至っている。明治時代に保存運動に尽力したのは、今年のNHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一氏だったと言われている。旧暦2月14日は、東国の独立を目指していた平将門が打ち果たされた日である。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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鈴子

鈴子

昭和生まれのライター&編集者。神社仏閣とパワースポットに関するブログ「東京のパワースポットを歩く」(https://tokyopowerspot.com/blog/)が好評。著書に「怨霊退散! TOKYO最強パワースポットを歩く!東東京編/西東京編」(ファミマ・ドット・コム)、「開運ご利益東京・下町散歩 」(Gakken Mook)、「山手線と総武線で「金運」さんぽ!! 」「大江戸線で『縁結び』さんぽ!!」(いずれも新翠舎電子書籍)など。得意ジャンルはほかに欧米を中心とした海外テレビドラマ。ハワイ好き

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