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日本ではあまり報道されていないが、現在、世界中のかなり多くの都市で過激なデモ行動が続いている。デモの理由は各国によってさまざまであるが、先進国でも発展途上国でもデモ隊の行動はあまり変わらない。病気蔓延を抑える目的で行われてきた、行動封鎖に対するうっ憤もかなり溜まっていたところでもあり、抗議行動はなかなか治らないようだ。
●日本三大怨霊のひとり・平将門
抗議行動というのは、大きくなっていくと国を倒すほどの力を持つし、それほどの反乱者は歴史に名前を残していく。日本史に名を刻む反乱者は多いが、平安時代の人物がはるか後の世の政策にまで影響を与えた例はないのではないだろうか。この反乱者の名を平将門という。日本三大怨霊のひとりとしても有名な武将である。
●桓武天皇に続く血筋の武将
ご存じない方のために、平将門について簡単にご紹介しておこう。第50代・桓武天皇のひ孫と言われる高望王(たかもちおう)は臣籍降下(皇族を離れ臣下となること)し、上総介(現在の千葉県中部の官史)に任官、任期終了後もこの地で過ごし、関東に一大勢力を築いた桓武平氏の祖と言われている。この高望王の孫が平将門である。
平将門は、若い頃には藤原忠平の元に士官し12年ほど在京していたが、高い位につくこともなく東下した。
その後、さまざまな理由が研究されているが、簡単に言えば一族の争いに巻き込まれて戦の中心になることとなり、関東諸国をも巻き込んだ長い戦乱が始まる。その後、国府を落とした将門は朝廷に対して「新皇」を自称、東国の独立を宣言するのである。天皇の血筋である彼ならではの言い分である。
●将門を討ち取ったのはお不動さまの力
これに慌てふためいた朝廷は討伐団を結成し、「平将門の乱」と呼ばれたこの戦さは将門の討死であっけなく終わった。この時活躍したのが藤原秀郷、討伐祈願に力を発揮したのが成田山新勝寺の不動明王と伝わっている。鉄人の将門の戦死については、各種の逸話が伝わっており、将門伝説に花を添えている。将門の急所は1カ所しかなく、それを知っていたのはわずかの人で身近な人物に裏切りものがいたのではないかと。この裏切り者の一人に寵姫の桔梗がおり、将門の縁地では桔梗の花が咲かないと言われている。このような話が伝わるほど、将門は戦上手で強かったらしい。
●現在は工事中の「将門塚」
さて、平将門が同時期に反乱を起こした藤原純友よりも後世に語り継がれた理由は死後の逸話によるものであろう。討たれた将門の首級は京の七条河原に運ばれ晒されることとなる。そしてこの首が故郷である東国を目指して空を飛び、力尽きて落ちた場所が東京は大手町の一角で、現在「将門塚」として大事にされている。ただ今、4月末を目処とした第6次となる改修工事中で工事壁に囲まれているが、以前もご紹介した通り、この地には不可思議な言い伝えがいくつも残る。