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かつて医学部、歯学部の学生がオリンピック選手として活躍していた

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小林哲夫dot.
1964年の第18回東京オリンピック(東京五輪)、ボートエイト・予選の様子((c)朝日新聞社)

1964年の第18回東京オリンピック(東京五輪)、ボートエイト・予選の様子((c)朝日新聞社)

 五輪の歴史を振り返ると、早稲田大、慶応大、一橋大などからオリンピック選手が誕生している。1964年の東京五輪には、東京医科歯科大の現役学生がボート競技に参加した。医学部、歯学部の学生とオリンピックとの意外な“縁”とは――。小林哲夫著『大学とオリンピック1912-2020 歴代代表の出身大学ランキング』(中公新書ラクレ)から抜粋して紹介する。

*  *  *
 一九六四年オリンピック東京大会のボート競技(舵手なしペア)には、東京医科歯科大歯学部四年の黒崎紀正、向後隆男が出場している。

 黒崎は一九四三年栃木県生まれ。祖父、父の代から続く歯科医の家の長男として生まれた。

 六一年、県立宇都宮高校を経て大学へ入学する。高校時代までスポーツの経験はなかったが、身長約一八一センチ、体重約八〇キロと体格は恵まれ、運動神経、体力ともに優れていた。東京医科歯科大ボート部はそんな黒崎を、オリンピックを狙える有望新人と注目しており、黒崎は熱心な勧誘を受け、入部した。

 大学にボート部が作られたのは一九五七年のことである。東京大、早稲田大、慶應大のボート部が五〇年以上の歴史がありオリンピック代表を多く出していることに比べると、東京医科歯科大には歴史がない。まさに、「新参者」だ。

 しかし、東北大より招いた尾崎進の熱血指導によりみるみる強くなり、六〇年ローマ大会の代表選考会ではあと一息、というところまで善戦し、関係者はおおいに悔しがった。もっとも、黒崎はそんな経緯があったことを知らない。黒崎に話を聞いた。

「医科歯科大のボート部が強いこと、いや、六四年に東京オリンピックがあることさえも知らなかったし、出ようなんて思いつきもしませんでした」

■東京医科歯科大歯学部生の五輪代表は、寺や農家の納屋で合宿

 ボート部はオリンピック東京大会を目指して強くなるために、尾崎から後任を推薦してもらい、兒島伊佐美がコーチに就任する。当時のボート部には主力となる選手が少ないこともあって、兒島はマン・ツー・マンで熱心に教えた。

 ただ、練習環境に恵まれているとはいえなかった。教養部のある国府の台キャンパス(千葉県市川市)近くの寺や農家の納屋などを借りて部員全員が雑魚寝をしていた。朝五時に起床して八時まで、夕方は大学から戻って陸上トレーニングに励んだ。学年によって授業や実習の時間帯が異なるので部員がなかなか揃わなかったが、レースのシーズンになると、戸田のボートコース近くの民家を探し、そこで合宿を行っている。

「大学に入りたての頃は筋肉がついていなかったが、兒島さんに鍛えられました。国府台のキャンパスの松の木に吊したロープを登ったり、近くの里見公園脇の坂のダッシュを繰り返したりしたことで、腕力、足の筋力が相当つきました。また、当時はまだおおらかな時代で、練習に疲れて授業や実習をすこしサボっても後で挽回できれば許されるところがあった。今は出席が厳しくなって、すこし窮屈な感じで余裕がないと思います」

 オリンピック開会式では選手は背の高い順に並んでおり、黒崎は男子二列目の最も内側で行進した。レースでは予選五位、敗者復活戦では完敗し、決勝へは進めなかった。

「出走クルーの情報がまったくなかったので、自分のペースで漕ぐしかなかった。日の丸を背負ってという感じはなかったですね。開会式は待たされたという印象はありますが、天気が良く入場行進はとても良い気分でした」

 黒崎は大学卒業後、大学院を修了して研究者となり、東京医科歯科大教授、同大歯学部附属病院長を務めた。ペアの相手だった向後は、のちに北海道大歯学部教授となった。コーチの兒島はのちに東京電力副社長、日本原燃社長を務めた。


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