一方で、本来の地域である中央アジアと東トルコにおけるアルメニア人の環境は悲劇的でした。1915年から1923年の間のオスマン帝国終焉の時代、アルメニア人に対する組織的な大量殺人と民族の追放が行われました。アルメニア人は彼らの離散の地エルサレムに逃げてきました。この期間のアルメニア人に対する大量殺人と追放による死者は信じられないくらい多く、約150万人が犠牲になった「アルメニア・ジェノサイド」として知られています。この大量虐殺は20世紀になって初めての虐殺とされています。加害者のトルコはこの情報が広がって巨額の賠償責任が生じることをおそれてこの事件を否定しており、トルコではこの件を話題にすることはできません。

 大量虐殺から逃れてきたアルメニア人は、自分たちの生活を聖地で立て直しました。エルサレム旧市街のユダヤ人、キリスト教、イスラム教の各信者が住んでいる地区に隣接したアルメニア人地区やベツレヘム、さらにイスラエル国内の港町ヤッフォやハイファにもアルメニア人コミュニティーがあります。アルメニア人は世界に交易ネットワークをもっており、エルサレムでも家具や香辛料を世界各地から集めて販売しています。また独自の芸術的な伝統品、とくに冒頭で紹介した青と白で彩られた手作りタイルも有名です。アルメニア人はまた、1857年にエルサレムに写真を最初に紹介しました。

 アルメニア人の宗教はキリスト教だと書きましたが、圧倒的多数はアルメニア使徒教会の信者です。カトリック教会や東方正教会とは少し異なる立場をとっています。また使徒教会という名前の通り、使徒たちの伝道によって伝えられたと言われています。これはアルメニア人の誇りです。アルメニア人はエルサレムやヤッフォに独自の教会を建てました。またエルサレム旧市街にあるイエスがはりつけになったといわれる場所に立っている聖墳墓教会やベツレヘムの聖誕教会などキリスト教各派が聖地とする教会で、カトリック教会・東方正教会と共にアルメニア使徒教会も中心となって共同管理しています。

 大量虐殺がアルメニア人のトラウマの歴史になっているせいか、そのコミュニティーは秘密的です。外国人は、教会に入るには事前に登録しなければならないところもあります。ただ、私がエルサレム旧市街を歩き、アルメニア商店の店員との対話をすると、とても親切で、自分たちの歴史や生活をとても穏やかに話してくれます。また相対的に高い教育を受けている人が多く、アルメニア語はもちろん、アラビア語、ヘブライ語、英語、フランス語、イタリア語など複数言語を話すことができる人も多いです。

 興味深いことに、アルメニア人とユダヤ人は多くの共通点を持っています。世界がグローバル化してひとつになるずっと以前から、アルメニア人はユダヤ人のように世界を旅していました。自分の国も帰る国もない時代です。この地球上でいろいろな場所にユダヤ人とアルメニア人のコミュニティーがあります。そして離散の地でも民族と家族の強い団結を保っています。二つの民族は自分たちの文化と宗教のアイデンティティーを失うことなく、他民族と交易のルートをつくることができます。民族の離散「ディアスポラ」の文学のほとんどは、世界の異なる地域にある民族グループの現状に言及したものですが、ユダヤ人とアルメニア人の事例をもとにしたものだといっていいでしょう。二つの民族が独自の祖国を得たのは最近です。イスラエルは1948年、アルメニアは1991年。ところが、この二つの民族が一番多く住んでいるのは祖国ではなく、実は米国ともいわれています。

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