山野愛子ジェーンさん(撮影/今村拓馬)
山野愛子ジェーンさん(撮影/今村拓馬)

 かつて日本の徒弟制度は、弟子は師匠の技術を『見て盗む』ことが当たり前だった。だからアイデアが浮かんでも胸にしまって、誰とも共有しない。だが、初代・山野愛子は「いいものはみんなで」の精神で、「ここに輪ゴムを使うと便利よ」などと、アイデアをすべてオープンに伝えた――。

 18歳で初代・山野愛子の後継となった山野愛子ジェーンさん。ロサンゼルス生まれで、当時は日本語もままならなかったジェーンさんにとって、二代目襲名は重責だった。そんな彼女が多くを学んだのは、やはり、初代・山野愛子だった。

 先見性に富み、あふれるアイデアを抜群の行動力でカタチにした初代だが、頑なに禁止したこともある。

「ネイルだけは、ダメっていわれました。『日本はお米の国だから』って。長くて華美な爪では、お米を研ぐのに支障があるという理屈でしょうが、祖母がお米を研ぐところを見たことはないんですよ(笑)」

■多忙な中のファミリー

 右も左もわからないまま「飛び込まされた」美容界で、休むことなく懸命に活動し続けていたジェーンさん。やがて最愛の伴侶と出会うことになる。カリフォルニア生まれのスタンリー・巧・中川さんだ。

「当時の彼は週末にはしっかり休みをとる生活でしたから、休日のない私にびっくり。祖母は遊びも仕事につながるといって、休むことのない人でしたから、私にとっては当たり前のことだったんですけれどね(笑)」

 そして二人には、待望の「三代目」が授かる。しかし、休みのない多忙な生活はそのまま。講演やショーに加え、取材などもあり、スケジュールがびっしりと埋まっていた。

「妊娠がわかった年、日本舞踊・深水流の家元である朝丘雪路先生とご一緒の舞台に上がらせていただくことになっていました。朝丘先生は幼い頃からの日舞のお師匠さん。ご一緒できる舞台のためも、お稽古は欠かせませんでした。もちろん仕事もどっさりあって(笑)。そんなとき、私の体を心配した秘書が時間をきっちり管理してくれて、お陰で出産にこぎつけました」

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三代目が生まれて実感したこととは?