ところがこの法華堂、今はもうない。明治時代にお堂は壊され、現在は法華堂跡という名と壊されたお堂の代わりに建てられた小さな神社が残るばかりである。こんな場所に頼朝のお墓が?と驚かされるくらいの規模である。これでは壇ノ浦の海に散った平家が祀られている赤間神宮のほうがはるかに立派である。

●人気のなさが原因か

 実はこの墓も江戸時代に薩摩藩によって整備されたもので、頼朝が実際に埋葬された場所なのかどうかもはっきりしていない。そういえば、長年教科書で紹介されてきた源頼朝の肖像画は、近年別人であるとも言われている。このため、神護寺蔵の有名な肖像画は「伝源頼朝像」と呼ばれるに至っている。まるで存在自体を消そうとする力が働いているかのようだ。

 こののち続く武家政権時代の本格的な幕開けを担った人物としては、死後、あまりに名声を得られなかった代表格と思われる源頼朝だが、現代になって彼の作った町は訪れたい・住みたい街の常に上位に来る有名スポットとなった。それでも平清盛が整備した厳島神社や、徳川家康の霊廟(れいびょう)である日光東照宮には世界遺産の登録という点では、まだ負けてはいるのだが。