●全滅した鎌倉武士たち

 最終的に、鎌倉幕府は1333年、新田義貞が起こした軍により滅亡した。挙兵時にはわずか150騎だった兵が、鎌倉に入るころには数十万(太平記では60万余騎)に膨れ上がっていたとか。鎌倉は守るに適した地形ではあるが、海岸から侵入した敵軍により焼き払われ、戦場となった鎌倉のほとんどは壊滅的な被害を受け、多くの鎌倉武士たちは討死している。

 頼朝が平家をことごとく討ち果たしたと同様、この時代の名だたる武将たちも最終的に北条氏の菩提(ぼだい)寺・東勝寺にて全滅した。このように歴史的な節目の戦いであるにもかかわらず、明確な歴史名も与えられていない戦争によって鎌倉時代は終焉(しゅうえん)したのである。

●頼朝のお墓を知っていますか?

 そんな鎌倉時代の終わり方を知ってか知らずか、現代では鎌倉は関東有数の観光スポットである。風光明媚(めいび)で鎌倉大仏や鶴岡八幡宮などの歴史的な建造物などもあり、常に交通渋滞をも引き起こすほどの集客力を誇っている。

 さて、この鎌倉の地にある鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝のお墓の存在を知っている人がどれほどいるだろう。ちなみに2代将軍・頼家は伊豆修善寺の修禅寺に、実朝は母・政子も眠る寿福寺と高野山の金剛三昧院などに墓碑がある。これらに比較して、頼朝のお墓はかなり寂しい場所にある。地理的には、鶴岡八幡宮から数百メートルしか離れていないが、ここまで足を運ぶ観光客は決して多いとは言えない。

●死因もはっきりしない頼朝の最期

 源頼朝は建久10年1月13日(新暦1199年2月9日)に没した。死因は定かでない。相模川橋供養の帰りに何らかの病に罹患(りかん)したらしいのだが、落馬説から暗殺説まで数多くの原因が語られている。中には「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」という記録も残っていて、もはや正解は見つかりそうもない。死後、妻の政子は、頼朝を館の北隅に建立されたのちの法華堂と呼ばれるお堂に埋葬し、毎年手厚い法要を営んだ。また、鶴岡八幡宮の境内に白旗神社を創建、祭神として頼朝を祀ってもいる。

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