真珠湾で米戦艦を雷撃する直前に撮影された前田氏が搭乗した九七式艦上攻撃機(前田武氏提供)。戦後、偶然撮影した米国人カメラマンから前田氏が譲り受けたという
真珠湾で米戦艦を雷撃する直前に撮影された前田氏が搭乗した九七式艦上攻撃機(前田武氏提供)。戦後、偶然撮影した米国人カメラマンから前田氏が譲り受けたという
真珠湾攻撃直前に撮影した空母加賀艦攻隊の記念写真。後列から2列目、右端が前田氏
真珠湾攻撃直前に撮影した空母加賀艦攻隊の記念写真。後列から2列目、右端が前田氏

 日米開戦から75年……熾烈な戦いを経験した旧日本軍関係者も少なくなる一途だ。ここでは1941年の真珠湾攻撃に参加した航空兵のインタビューを紹介する。

※この記事は週刊朝日2008年8月29日号に掲載されたものをニュースサイト「dot.」編集部が再構成したものです。

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 太平洋戦争の火ぶたを切った真珠湾奇襲攻撃。この攻撃に加わり、米戦艦を魚雷で攻撃した元飛行兵・前田武氏(87=取材当時)は、現在もあの日の出来事を鮮明に覚えている。「もう戻れない」と飛び立った甲板に生還し、その後も戦い抜いた元飛行兵に、あの戦争への思いを聞いた。

 1941年12月7日早朝(現地時間)、ハワイ・真珠湾に停泊する米戦艦「ウェストバージニア」が無防備な横腹を晒していた。800キロの魚雷を抱いた日本海軍の雷撃機が、海面から高度10メートルの低空飛行で、米戦艦群に魚雷攻撃を加えようとしていた。

「とにかく訓練どおりにまっすぐ走ってくれ」

 3人乗りの雷撃機の真ん中に座り、ナビゲーター役を務めていた当時20歳の前田武・二飛曹は、そう心で祈りながら、魚雷投下のレバーを握りしめていた。機内は緊張感に満ちていたが、猛訓練を重ねた搭乗員は、非常に冷静だった。

「発射用意!」

 パイロットの吉川與四郎・三飛曹が、訓練と変わらない落ち着いた声で合図を出す。機体の外では、米軍がやみくもに機銃から放つ銃弾が、まばゆい光を引きながら、操縦席の左右を飛び交っていた。その時、まるでバケツを叩いたような音がした。

 一発の銃弾が命中したのだ。機体は大きく揺れたが、幸いにも飛行に支障は出なかった。

「テッ(撃て)!!」

 掛け声と同時に、前田二飛曹は発射レバーを思い切り引いた。魚雷の重みから解放され、機体はグーンと浮上する。

「魚雷は走っているか!」

 海面に視線を落とすと、ウェストバージニアの左舷に向け、魚雷が直進していく。機体の前方には、すでに日本軍機の爆撃を受け、黒煙に包まれた戦艦群があった。その黒煙の中に直進し、ウェストバージニアの艦橋をかすめるように敵の対空砲火からの離脱を図った。その際、戦艦の艦上に逃げまどう米兵の姿がはっきりと見えた。

 離脱に成功して後方を振り返ると、海底の泥を巻き上げたためか、ウェストバージニアの左舷から十数メートルの茶色の水柱が立ち上った。

「よおし、命中だ!」

 だが、喜びもつかの間だった。後方に続いていた友軍機は、魚雷投下後に黒煙を避けるように右旋回で離脱を図ったところ、ここぞとばかり、待ち構えていた対空砲火の餌食となったのだ。苦楽を共にした戦友の機体が火だるまとなり、落ちていった--。

 開戦前夜、日本は中国や仏領インドシナへの進攻を巡り、米国と鋭く対立した。対米開戦を決意した日本軍は、ハワイ・オアフ島の真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊を航空機で奇襲攻撃し、これを壊滅する。太平洋戦争の火ぶたは切って落とされた。

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