「こんな南国の楽園のような島に爆弾や魚雷を落としていいのか、少し躊躇しました。上空には敵機の姿はなく、砲台も攻撃してこない。宣戦布告前の『7日午前7時45分(ハワイ時間)より前には絶対に攻撃してはならぬ』と厳命されていた。だが、米軍のあまりの無警戒ぶりに、米軍に宣戦布告が伝わったのか、不安に思いました」

●戻らぬ戦友分も用意された昼食

 オアフ島の北西方向から敵レーダーの死角となる山岳地帯を進んだ。視線を落とすと、パイナップル畑で作業している日系人らしき人影も見えた。

「ト・ト・ト(全軍突撃せよ)」

 第1次攻撃隊の総指揮官・淵田美津雄中佐の搭乗機が打電した攻撃命令を受信した。編隊を解き、雷撃隊は一直線に並んで攻撃態勢に入った。バーバース岬に進むと、フォード島周辺に目刺しのように並ぶ米太平洋艦隊から水柱があがった。

 「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」

 淵田機の打電を受け、加賀の雷撃隊も戦艦群に攻撃を開始した。日本軍は2度にわたる空襲で米太平洋艦隊をほぼ壊滅させた。だが、最重要目標だった2隻の空母は真珠湾に停泊しておらず、また、米軍の反撃をきらって予定した第3次攻撃を中止したため、真珠湾の燃料タンクやドックは手付かずだった。

 前田氏は加賀に戻り、戦友の帰還を待ったが、結局、加賀の雷撃隊12機のうち、5機が未帰還だった。

「艦内に戻ると、全員分の昼食が用意してあった。予定時刻を過ぎても、やはり戦友は戻らない。だが、誰も冷えきった昼食を片づけようとしませんでした」

 前田氏はその後、日本海軍が加賀をはじめ空母4隻を失う惨敗を喫したミッドウェー海戦で、左足に重傷を負った。再び戦線に戻り、ラバウル、トラック諸島などを転戦する。戦争末期の硫黄島攻防戦、沖縄戦での熾烈な戦いにも航空兵として参加した。前田氏は、あまりに長い戦争だったと思っている。こうつぶやいた。

「国を守る任務を完遂しようと、一生懸命やったので、個人的には後悔はありません。ただ、日本は講和に持ち込むチャンスがあったのに、見逃し続けた。戦死した戦友たちも、あんなにいい連中だったのに……」

 数々の修羅場を経験した老兵は、あの戦争を決して忘れることはできない。

(金子哲士)