加藤登紀子が辿る 童謡に懸けた野口雨情の「情熱人生」 (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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加藤登紀子が辿る 童謡に懸けた野口雨情の「情熱人生」

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野口雨情の生家を訪れた歌手の加藤登紀子さん

野口雨情の生家を訪れた歌手の加藤登紀子さん

詩人・野口雨情(提供・野口雨情記念館)

詩人・野口雨情(提供・野口雨情記念館)

絵雑誌『コドモノクニ』に掲載された「兎のダンス」(絵・岡本帰一)

絵雑誌『コドモノクニ』に掲載された「兎のダンス」(絵・岡本帰一)

 「赤い靴」や「七つの子」など、数々の童謡を残した詩人・野口雨情。日本の童謡に大きな影響を与えた彼は、実は歌手の加藤登紀子さんにとっても、忘れられない思い出を残した存在だという。そんな加藤さんが、BS朝日「黒柳徹子のコドモノクニ~夢を描いた芸術家たち」(9月16日・水曜日22:00)で、野口雨情の足跡をたどった。

 加藤さんにとっての、野口雨情にまつわる記憶。それは、加藤さんが歌手になって間もない頃のことだ。

「キャバレーでシャンソンを歌っていた時、酔ったおじさんたちから『外国の歌なんかやめちまえ!』とやじが飛んできました。そこで歌える日本の歌は何だろうと考え、アカペラで歌ったのが野口雨情の『七つの子』『シャボン玉』でした。歌いながらふとおじさんたちを見ると、静かに涙を流していました」

 ざわめいて全く歌をきいていなかったキャバレーの客が、その瞬間、シーンと静まり返ったのだ。加藤さんはその光景が、今でも目に焼き付いているという。

 それほどまでに日本人の心に深く根付いている、野口雨情の童謡。北原白秋、西條八十とともに童謡の三大詩人とも言われている雨情だが、その人生は決して順風満帆というわけではなかった。

 1882年(明治15年)5月29日、父・量平と母・テルの長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれた野口雨情。本名は英吉という。

 幼少期から詩に興味を抱いていた雨情は、18歳で東京専門学校(現在の早稲田大学) 文学科に入学するも、翌年中退、東京で詩人としての活動を始める。しかしその矢先、父親が他界してしまう。急遽、茨城の実家に呼び戻された雨情を待っていたのは、実家が抱えた多額の借金だった。

 当時は常磐線が開通したことで、海上輸送から鉄道輸送に変わっていく時代。廻船問屋をしていた雨情の実家は傾き、雨情は帰るなり借金の整理に追われることに。そうしたなか、雨情は地方財閥の娘、高塩ヒロと結婚。雨情、ヒロ、ともに22歳のことだった。


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