■戦後を創った吉田茂

 戦後の日本で、長期政権内閣といえば、吉田茂、佐藤栄作、中曾根康弘、小泉純一郎の各氏である。中でも、吉田茂氏と佐藤栄作氏の業績はすさまじい。

 吉田氏の場合、日本がアメリカの占領下にあったのだから「あれしか選択の余地がなかった」という見方もあるが、私は必ずしもそうは思わない。一時は南原繁東京大学総長(当時)らの唱えた「全面講和論(ソ連を含む全連合国との同時全面講和条約を締結すべきだとする主張)」にもかなりの支持があった。もしこの主張が通っていたらな、日本はアメリカ勢力圏の中で孤立するキューバのような存在になっていたかも知れない。

 日本は、そしてその当時の吉田茂首相は、賢明にもその道を採らず、アメリカなどの西側諸国とのサンフランシスコ講和条約の締結に向かった。結果としては、それが日本に幸運をもたらした。吉田茂氏は「戦後日本を創った人物」といえるだろう。

 のちの池田勇人首相の打ち出した「所得倍増計画」と相まって、戦後日本の国家コンセプト(国是)を築いたといえる。

■「対米追随」から「対米交渉」へ ――佐藤首相の飛躍

 2人目の長期政権の樹立者・佐藤栄作氏の最大の功労は、アメリカとの関係を「対米追随」から「対米交渉」に変えたことである。

 例えば沖縄返還。日本には1960年代初期から、山中貞則氏や床次徳二氏ら沖縄に心を寄せる議員や運動家はいた。だが、彼らのほとんどは「沖縄に日本の教育を認めよ」などの「特定分野の日本化」論だった。沖縄の運動家屋良朝苗氏(のちの琉球政府主席=沖縄県知事)でさえ、当初は「沖縄に日本的な教育を」がスローガンだった。

 それを佐藤首相は一挙に、「全面返還論」を打ち出した。1965年8月に沖縄を訪問した佐藤首相は、空港での講演で「沖縄が返還されるまで日本の戦後は終わらない」と発言、内外を驚かせた。

 それでも返還実現は遠い先だろうと思われていたが、1969年、アメリカでニクソン大統領が誕生した直後から、見る見る現実味を帯びて来た。経済面でのドル防衛、政治面でのベトナム戦争にアメリカ自身が手を焼いていたからである。

 とにかく、1969年の佐藤・ニクソン会議で「両三年中の沖縄返還」は決まった。「戦争によらずして重大な領土の変更」が行われたのはきわめて珍しい。

■「ワンマン」といわれなかったワンマン

 佐藤栄作氏の実績は沖縄返還にとどまらない。恐らく「もっとも多くの仕事をした内閣」だったろう。それにもかかわらず佐藤氏には、吉田氏のような「ワンマン批判」は少なかった。佐藤氏の首相就任直後にライバルの河野一郎氏が死去したこともあるだろうが、最大の理由は佐藤氏が官僚の使い方が上手だったこと、いわば官僚を使って議会内の政治家を押え込んだ点にある、と思う。

 この結果、日本の政治家は「官僚機構に対する陳情取次機関」になってしまい、せいぜい公共事業や交付金の地域配分で発言力を発揮するだけになった。それはあたかも戦前の帝国議会で「民の代表の議員が天皇の官僚に陳情する」姿に似ている。

 その意味では、佐藤栄作首相は偉大過ぎた。この偉大な首相の下で官僚たちは権限を伸ばし、政治家たちは陳情機関になり下がったのかも知れない。

 現在の日本の政治の原形は、佐藤内閣で作られた。それが今、この2015年には問題になっているのである。

(週刊朝日2015年2月20日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載29に連動)