街を出てからは、とにかく飛ばす。街から街までの距離と移動時間で時速を計算してみると、なんと時速130km。私の迎えに座っていた女性は、「あたし、タクシーは嫌いなの。ものすごくスピード出すでしょ。事故が多いのよ」と話していたのにも頷ける。

 爆走を続けたタクシーは、深夜0時ごろ、漆黒の闇の中で突然停車。何事かと驚いていると、間もなく反対車線からやってきたタクシーも停まり、こちらの運転手とあちらの運転手が乗り換えて、また爆走を続けた。どうやら、運転手の守備範囲が決まっているようだ。

 ケープタウンの手前170km地点の街ピケットバーグのガソリンスタンドで、タクシーはまた停まった。私たちのタクシーの周りに、続々とタクシーが集まってくる。6台のタクシーが集まったところで、ケープタウンのどこへ行くのかを、各乗客が聞かれた。ケープタウンは大きな街だ。東京と言っても渋谷と町田と青梅がそれぞれ離れているように、ケープタウン周辺の街々まで含めてまわるとなると、車一台では、一巡するだけでも半日はかかる。そのため、遠方からケープタウンを目指すタクシーがいったん集まり、行き先ごとに乗客を振り分け直して、最終目的地まで向かうのだった。

 ピケットバーグから私たちのタクシーに乗りこんだ仕切り役の中年男性は、極めて怪しげな風貌だったが、彼の対応は実に紳士的なもの。まず、不安がっている少女たちを目的地へ届け、次に疲れ果てた年配の男性を下ろし、続いて中年女性数人を各戸へと送った。その間一度も、余分な金銭を乗客に求めたことはない。車内には私を含む男性ばかりが残ったところで、「次はあんたの番。どこだっけ?」と聞かれる。「ロングストリートの……」と言いかけたところで、彼はすぐに運転手に指示を出した。目的の宿の真正面に寄せられたタクシーを降り、私は車内に向けて親指を立てた。運転手も仕切り役の男性も、残った乗客も、皆がニッと笑顔で、私に親指を立ててくれた。

 とかく治安の悪さについて語られがちな南アフリカのタウンシップだが、そのタウンシップを結ぶタクシーは、確かな連携プレーのもと、実にシステマチックに運行されていた。そして、ドアの開け閉めから降りる順番に至るまで、終始ジェントルな対応だったことが、今も心に強く残る。タクシーがこんなに紳士的なのだから、タウンシップに暮らす人々の多くもまた、きっとジェントルな人々に違いない。

* * *
 サハラでは道なき道をカローラが行き交い、西アフリカでは人と共に生きた鶏を積んだ高速バスが疾走していた。チャド・スーダンではトラックの隊商が数千kmの道のりをかけて物資を運び、ザイールの密林下の悪路には時速4kmの速度でコカコーラを運ぶトラックを見た。そしてケニアやタンザニアでは、自動車と野生動物が並走し、南アフリカでは激走するタクシー・リレーが、正確にジェントルに、人々を街から街へと運んでいた。道の表情をひとつ取っても、「アフリカ」と一括りにしては語りきれない多様さがある。

 それでも、アフリカの人々と話をしていると、「私たちアフリカ人は……」「ここアフリカでは……」と話されることがある。国境は後になって引かれたものであり、国籍が異なっても同じ大陸に生きる仲間であることに変わりはないとの意が、行間から伝わってくる。ここで言われている「アフリカ」は、私たちが十把一絡げに「アフリカ」と呼んでしまうこととは、全く別の文脈で語られているものだ。突然に漂う悠久の歴史観や連帯感に触れると、私は今でも、ちょっとたじろぐ。
 地中海から砂漠と密林を経て喜望峰に至るまで、アフリカの道は、途切れることなく繋がっている。そして、アフリカに暮らす人々も、この道を通じて互いに繋がっているのだと想うと、彼らが言う「アフリカ」に、ほんの少しだけ、近づけたような心持ちになる。

 アフリカの旅は、陸路がいい。

岩崎有一(いわさき・ゆういち)
1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。

アフリカン・メドレーのバックナンバー