1941年9月、呉海軍工廠で建造中の大和。手前に写るのが46センチ主砲。ひとつの砲塔に3門、計9門の主砲を装備した(大和ミュージアム提供)
1938年にドイツ・ワグナー社から輸入され、呉海軍工廠の砲身工場に設置された超大型旋盤。巨大な鉄の丸棒の端を取り付けて回転させる「面盤」は直径3.2メートル。「砲身のような『長尺物』は、両端を支えただけでは真ん中がたわんでしまい、そのまま削ったのでは精度が出ない。それを防ぐため、例えば、たわんだ状態でゆっくりと品物を回して刃物を当て、帯のように削って『受け』をつくる。そこにローラーの『受け止め』を設置して下から支える」(きしろの中島千寿常務)。この「受け」をいくつか設け、「受け」と「受け」の間を加工していく(資料提供:大和ミュージアム)
1941年10月、高知県の宿毛沖で公試運転(建造の最終段階で行われる性能試験)を行う大和(大和ミュージアム提供)
各種砲身材料(『呉鎮守府写真帖』から、大和ミュージアム提供)。大和主砲の中心穴加工について、きしろの中島千寿常務は「品物(鉄の丸棒)をゆっくり回しながら、片側ずつ削っていっていったのではないか」と推測する。単にドリルのような刃物を丸棒の軸に押し当てて削ったのでは、穴が曲がりやすい。「削りながら品物もゆっくりと回していく。そうすると自然に刃物がセンターへ向かっていくので真っすぐに穴が開く。そうやって片側を10メートル削り、そこで反転して、もう一方から10メートル削る。そして、最後は約20メートルの穴を一気に加工したと思いますね」
1944年10月24日、レイテ沖海戦でフィリピンのシブヤン海を進む大和。米空母艦載機の攻撃をかわすため、左に回頭中(米海軍歴史センター提供)
1945年4月7日、鹿児島沖の東シナ海で米空母艦載機の爆撃を避けようと、必死に操艦する大和。後部では火災が発生している。投下された爆弾が左舷の海上でさく裂し、巨大な水柱が立ち上がっている。同日、大和は3000人人以上の乗員とともに沈没した(米海軍歴史センター提供)