今月5日、新井貴浩(広島)が今シーズン限りでの現役引退を表明した。今年でプロ入り20年目を迎え、一昨年には通算2000本安打を達成するなどチームの歴史に残る選手であることは間違いない。その一方で珍プレーや“迷言”も多く、そのキャラクターは得難いものであった。そんな新井の20年間を代表的なエピソードとともに振り返ってみたいと思う。
■大学通算わずか2本塁打ながら自らの猛アピールでプロ入り
新井の出身はカープの地元広島県。広島工では4番、キャプテンとしてプレーしていたが甲子園出場経験はなく、全国的にも無名の選手だった。高校卒業後は東都大学リーグの名門、駒沢大に進学したがここでもなかなか芽が出ることはなく、レギュラーに定着したのは大学4年の春からという遅咲きの選手である。4年の秋にリーグ戦初本塁打を放ち、ベストナインを獲得したものの大学通算本塁打はわずかに2本。当時発売された「大学野球・週刊ベースボール増刊」(ベースボールマガジン社)では16人、「野球小僧No.1・白夜ムック(白夜書房)」では27人の大学生野手がドラフト候補として紹介されているが、ここに新井の名前は掲載されていない。注目度の高い東都大学リーグでプレーしながら名前が挙がっていないことが評価の低さをよく表していると言えるだろう。ちなみにこの年の大学生野手の目玉は二岡智弘(近畿大)であり、広島が高校時代から徹底的にマークしていたと言われているが、逆指名で巨人に入団している。そんな新井を6位で指名したのが地元広島だったが、これには裏話がある。駒沢大の先輩で当時広島の中心選手だった野村謙二郎のもとに新井が通い、スイングを見てもらったことがきっかけで野村が球団に獲得を進言したのだ。思わぬことがきっかけでプロのスカウトの目に留まるという逸話はよくあるが、現役の主力選手にアピールしてプロ入りのチャンスをつかんだ例は珍しいだろう。
■猛練習で三流の技術からチームの看板打者へ
プロ入り直後のキャンプでは守備難からなぜ獲得したのかという疑問の声も多く上がったが、持ち前の長打力を発揮して一年目から55試合に出場して7本塁打をマーク。その後も16本、18本、28本と順調に本塁打数を伸ばし、チームの中軸へと成長する。大学通算わずか2本塁打だったことを考えると驚異的な成長と言えるが、それを支えていたのが強靭な肉体だ。駒沢大を長く率いた太田誠監督(当時)も新井について「技術は三流だが体の強さは超一流」と語っており、広島伝統の猛練習にも大きな故障をすることなくついていけたことが長く活躍する土台を作ることとなった。
そして、新井の在籍していたこの期間は見事にチームの低迷期と重なっている。その大きな原因の一つが主力選手の相次ぐFA移籍だ。新井の入団した99年オフには江藤智が巨人へ、02年オフには金本知憲が阪神へそれぞれ移籍し、否が応でも長打力のある若手を抜擢しないといけない状況だったのである。これは新井にとってはプラスに働いた面もあったが、受けたプレッシャーも相当なもので金本に代わって4番を任せられた03年から2年間は19本塁打、10本塁打と苦しむシーズンが続いた。新井も当時の山本浩二監督には一番迷惑をかけたと語っているが、その不振を何とか乗り越えて05年には43本塁打でホームラン王を獲得。06年、07年には全試合に出場して100打点以上をマークするなど、名実ともにチームの看板選手となったのだ。