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2018年6月30日に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県・熊本県、以下、潜伏キリシタン関連遺産)が、ユネスコ世界文化遺産に登録された。日本では22件目の世界遺産となる。今回、「潜伏キリシタン関連遺産」が選ばれた背景には、何があったのだろうか?
これまでの世界遺産といえば、法隆寺や姫路城といった人類の傑作が登録されてきた。それに比べると、この潜伏キリシタン関連遺産はかなり様子が異なる。まず、12ある構成資産のうち、長崎市の国宝・大浦天主堂と、多くのキリシタンが幕府軍と戦った島原・天草一揆の原城址の2つを除いた他の10資産はいずれも、かつて潜伏キリシタンたちがその信仰を守って暮らしていた庶民の生活の場である「集落」なのだ。
その1つ、平戸島にある「春日集落」では、今も20戸60余人が見事にひろがる棚田で農業などをしながら、静かに暮らしている。キリシタンが聖地と仰ぐ安満岳(やすまんだけ)のふもとで、先祖からの信仰を守りながら400年前と変わらない信仰の場を受け継いできたこと、そのことに「顕著な普遍的価値がある」と認められたのだ。また、そこから近い「中江ノ島」も、人は住んでいないが、殉教の島であり、聖水を汲む場所として崇められており、その意味が評価されている。つまり、この文化遺産は「物」や「場所」としての遺産ではなく、「記憶」の遺産だといえる。
こうした遺産が、五島灘の海をとりまくように点在している。その範囲は広く、長崎市から五島列島まではおよそ100キロも離れている。キリシタンたちが海を緩衝にして受難を避けようとした姿も浮かんでくるし、島々や険しいリアス式海岸も信仰を守ってくれたことだろう。各「集落」では、それぞれ独自の信仰形態も育まれた。
ところで、「潜伏キリシタン」という言葉に馴染みのない人も多いのではないだろうか。似たような言葉で「かくれキリシタン」が思い浮かぶが、実はこの二つには、明確な違いがある。1644年から1873年までの230年間、禁教の時代を文字通り潜伏して生き抜き、明治になって禁教が解かれたときにカトリックに復帰した信者たちを「潜伏キリシタン」、一方で、カトリックに復帰せずに潜伏期以来の儀礼や行事を守ってきた人たちを「かくれキリシタン」と、便宜的に呼び別けている。