三平方の定理や七音音階にその名を残す古代ギリシャの数学者ピタゴラスは、弟子たちに空豆の食用を禁じたという。その理由は? (※写真はイメージ)
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『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、古代ギリシャの数学者、ピタゴラスを診断する。

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【ピタゴラス (B.C. 582~496年頃)】

 夜中に原稿を書いているとお腹が空く。煙草と甘いものは家人から“ドクター・ストップ”がかかっているので“坂の上の雲”の主人公、秋山真之中佐に倣って煎り豆を齧るのがここ数年の習慣である。この豆を筆者は最初、黒豆かピーナッツと思っていたが、よく調べてみると空豆であった。

 秋山中佐の出身地である伊予松山では単純に焙烙で煎った空豆(堅豆)が伝統的な間食なのだそうである。小粒の空豆を殻ごとうまく煎った堅豆は大変香ばしく、低カロリー高食物繊維で結構なものだが、東京ではなかなか売っていない。油で揚げた「いかり豆」はスーパーでも容易に手に入るが、似て非なるものであり、何よりも油で汚れてしまうので秋山中佐にならってポケットに入れることができぬ。

空豆の起源と分布

 さて、空豆は紀元前より地中海、西南アジアで栽培され、中国を経て日本へは8世紀ごろ渡来したという。アジア・アフリカなど旧世界で準主食とされ、特に中国では豆板醤の原料として大変重要な作物である。日本では江戸慶長年間以降、特に西日本で米の裏作として田に植えられ、農家の副食や間食として普及した。

 江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には「胃ニ快ク臓腑ヲ和ス」とあり、さらに誤って針をのんで誰も手をつけられなかった患者に医師が韮と空豆を与えたところ無事に排出されたとしている。食物繊維が効いたのだろう。さらに、同書には古株に花実をつけることから「故ニ以ッテ子孫繁昌草ト為ス(巻104菽豆類)」としているが、これは著者である寺島良安先生の誤解で、普通は一年草である。

空豆を食べられない人々

 幸いなことに日本人にはほとんど見られないが、地中海地方には空豆で中毒を起こす人々が存在する。空豆に含まれる糖アルカロイドvicineやisouramil、covicineが腸内細菌のβ-グルコシダーゼの作用で加水分解して生じた代謝産物が、赤血球の細胞膜を壊して溶血性貧血と黄疸を起こすためである。X染色体上にある糖代謝酵素のグルコース-6-リン酸デヒドロゲナーゼ(G6PD)遺伝子で発症に関わるいくつかの変異が知られている。X染色体上の変異であることから、血友病同様に伴性遺伝であり、男性にのみ発症する。

 三平方の定理や七音音階にその名を残す古代ギリシャの数学者ピタゴラス(Pythagoras)は、弟子たちに空豆の食用を禁じているが、その背景には空豆中毒の遺伝子を持った人々が多かったからではないかと考えられている。なぜ、生存に不利なはずの変異が残っているかというと、マラリアなどの感染症に対する抵抗性とのトレード・オフになっているらしい。

 現在でもイタリア南部のカラブリアでは村ごとのG6PDの変異型遺伝子頻度がマラリア発症者数と一致する。さらに南アジアからアフリカにかけての様々な地域でG6PDの変異は異なった遺伝子座で繰り返し生じており、いかにマラリアが大きな脅威だったかが推定できる(地中海型はSer188Phe、中東からインドはVal68Met、Asn128Asp、アフリカではAsn126Asp)。

 近年、変異型G6PDの分子構造から、多くの変異は酵素活性の安定性を損なうために生じること、酵素活性を維持するのに必須のNADPとの結合部位に生ずる変異が最も重症化することが分かってきた。ここ数世紀、日本や中国、朝鮮半島などではマラリアの流行はほとんどないのでG6PD変異を持つ人に遺伝的利益はなく、空豆が主要な食材として残ったのだろう。今夜は早めに帰って日本人に生まれた幸福をかみしめながら、空豆をゆでてみようかと思う。

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