「これからの社会」と言った時、私がイメージするのは、先行きの見えない不安定な社会である。個人化の進行や社会・経済状況の変化によって、これまでの「当たり前」とされた生き方が、当然のことではなくなることは、様々な論者によって指摘されていた。このことは就労や家庭の生活などをはじめ、多方面で困難を生じさせている。さらに、そのような変化はこれからさらに加速していくものと思われる。

 そういった問題意識は、広く社会において共有されつつある。例えば、経産省の次官・若手プロジェクト「不安な個人、立ちすくむ国家」では、「個人の生き方や価値観も 急速に変化しつつあるにもかかわらず、日本の社会システムはちっとも変化できていない」との指摘がなされ、「多様な生き方をしようとする個人の選択」が尊重されるシステムへ変革する必要性が語られる。

 与党の中にもそのような問題意識はある。自民党の「2020年以降の経済財政構想小委員会」の「レールからの解放」というレポートにも、これまでの「レールを壊し、多様な生き方を選択できる新しい日本社会を創る」べきだという方針性が示されている。

 そのような状況認識を踏まえた上で、具体的にはどのような形で社会をつくり変えていくのかについては、様々な答えを用意することができるだろう。どのような答えを出すにしても、それはこれからの社会を生きる若年層にとっては、自分の人生を左右しかねない重要な課題だ。

 それにもかかわらず、その当事者が、国会という場における議論へ参加する可能性すら排除されているのは、おかしいのではないだろうか。代表者を選ぶだけではなく、これからの社会を、政治によってつくりだすことにも参画する道が開かれるべきだ。成人年齢をめぐる動きが、被選挙権をめぐる議論にも、つながってほしいと思う。

 さらに言えば、被選挙権が「実質的」に認められる社会にも変わってほしい。今の社会は、政治への新規参入の壁が高すぎる。世界的に見ても、立候補にあたっての供託金は非常に高額に設定されている。また今の選挙制度の下では、大政党に所属していなければ、なかなか当選するのは難しい。

 そのような厳しい条件の影響もあって、世襲議員が多いし、ジェンダーや年齢層の観点から見ても、国会の構成はいびつだ。もしも選挙制度まで変えようと思えば、膨大な労力が必要になることは容易に想像がつく。だからこそ、長期的な視野をもって、議論し始める必要があるように思う。多様性の時代だからこそ、国会もそれを代表できる場に変わっていってほしい。(文/諏訪原健)

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